その手には、ほうちょうをもって。

 娘が荒地で泥炭を掘る仕事を言いつけられるようになったのは、丁度九つになった日のことでした。
 娘にとって自分の誕生日とは、押し付けられる仕事が増えたり、キツくなったりする日です。そんなことはとうに覚悟していましたので、娘は嫌だとも、できないとも言いませんでした。
「何日かかってもいいからこのかご五杯分は掘っておいで。お前が怠けていてはいけないから、かご一杯分はそのまま持って帰ってくるんだよ」
 母親の言葉は殆ど死刑宣告でした。泥炭は普通、一度掘り出した後充分に乾燥させてから運ぶ物です。乾燥させても重たい物を、湿ったまま車もなく運ぶというのは無謀なことです。
「いいね? 五杯分は掘るんだ。嘘吐いたら後でわかるからね。どうなるかわかってるね?」
 母親はもう一度娘に言い聞かせました。
 娘は大きなかごと採掘道具、それから重たい諦念を背負って、荒れ地へと向かいます。
 その直前、一番上の兄は楽しそうに言いました。
「採れるまで戻ってくるなよグズ!」
 三番目の兄は娘の髪を引っ張って歌うように言いました。
「もし泥炭が足りなかったらお前なんか売っ払うからな。いや、買い取っても貰えねえかこんな役立たず!」
 一緒になって笑っていた二番目の兄はこっそり近寄ってきて、娘にパンを持たせて囁きました。
「無理だったら戻っておいで。また僕のパンをひとかけ分けてやろう」
 娘は青い顔をして「はい」と答え、とぼとぼと丘の方へ歩いて行きました。その丘を越えてずっと行ったところに、泥炭の採れる荒地があるのです。
 丘の中腹には一本の木と、いくつかの大きな岩がありました。その中の一つには大きな割れ目がありましたが、蓋をするように大石が立て掛かっているため、娘はその奇妙な隙間に気がつきません。
 幼い歩幅には長い道のりを抜けて人里離れた荒れ地に辿り着くと、そこには先客がありました。わざわざこんな荒れ地までやってくる人は他にいないと思っていましたので、娘は大層驚いて、遠くから様子を見ます。
 先客は娘より五つ程上でしょうか。髪の短い女の子で、積まれた泥炭の傍で座り込んでいました。
 娘はその女の子の泥炭が、喉から手が出るほどほしくなりました。そんな気持ちが後ろめたくて、娘は少し離れた場所を選んで泥炭を掘り始めます。
 しかし、様子がおかしいのです。しばらく経っても、髪の短い女の子は動きません。不審に思った娘は近寄ってみました。
 そうしてよく見るとどうでしょう、女の子の右足はぽきりと折れているではありませんか。更に近づくと、高熱を出して息も絶え絶えであることもわかります。
 娘は慌てて近くの川に行って水を汲み、女の子に飲ませます。お礼に泥炭を分けて貰えないだろうかと、そんな下心もありました。
「大丈夫?」
 娘が声を掛けると、女の子はやっと目を開けました。
「あんたが、お水を……?」
 娘が頷くと、女の子は力なく笑います。
「やっぱり神様はいらっしゃったのね。最後にもう一度誰かに優しくされたいって、願ってたのよ……私……」
 女の子の言葉に、娘は泣きそうになりました。
「違うの。わたし、手助けしたお礼に泥炭を分けてくれないかなって、期待してたの。沢山掘り出して、かご一杯分は持ち帰れと言われたから。それにあなたが男だったら、怖くて近寄りもしなかったわ」
 俯く娘に、女の子はお礼を言おうか、もう一つの考えを行動に移そうか少しだけ悩んで……最後に、神に祈りました。
『主よ、私につかわしてくださったこの小娘をお守りください』
 そして残る力を振り絞って娘の髪を引っ掴みます。
「なんだって! いやしい小娘だ。髪まで伸ばして生意気な! 私なんか……見てみな、いつもこうしてざくざくに切られちまうのさ!」
 突然のことに娘は驚き、怯え、女の子の手を振り払って逃げて行きます。恩知らずだとも思いました。
 娘は気持ちを落ち着けると、少し離れたところで泥炭掘りに戻りました。日が暮れると火を焚いて、その傍で少しだけまどろみます。最初は女の子のことも気がかりでしたが、火を分けに行ったときにまた怒鳴られたので、無視することにしました。
 泥炭掘りにだけ集中できたお陰か、娘は二日目の昼には要領を掴んで、かご二杯分くらいの泥炭を採ることができました。
 娘は二番目の兄に持たされたパンの残りを食べて、自分の体力の限界を悟りました。これ以上消耗しては、重たい泥炭を背負って家まで戻ることができないとわかったのです。
 娘は仕方なく、後でひどい目に遭うことや、二番目の兄に頼らなくてはいけなくなることを受け入れることにしました。
 元来た道を戻ろうとする途中、娘はもう一度女の子の様子を窺いました。
 少し様子が変です。一度かごを置いて近づいてみると、女の子が獣に食い荒らされてこと切れていました。当然、泥炭は無事です。
 それを見た娘は女の子のまぶたを下ろしてやり、歯を食いしばりすぎて流したのであろう口元の血を拭ってやりました。
 女の子が掘った泥炭は、もう誰の物でもありません。娘はそれを自分の物にすることにしました。本来なら少しだけ後ろめたく思ったのであろう娘ですが、女の子のことがすっかり嫌いになっていたので、気にしませんでした。これで二番目の兄に頼らずとも済みます。

 そんなことがあってから数年、前よりも沢山の泥炭を要求されるようになった娘は、隙間のある岩の前を通り掛かるとき、歌声を聴きました。一度聴いたら忘れられない不思議な旋律でした。
 娘はその優しい歌声の主が気にはなりましたが、その声は男の声です。ですから、恐怖が勝って足早に通り過ぎました。
 何日か後、娘は雨に降られて、丘の木の下で雨宿りをすることにしました。暑い日が続いていたものですから、娘は恵みの雨だと思いました。
 仕事が遅れるのも一度は忘れて、娘はこの間聴いた歌をふんふんと歌います。娘は容姿こそ暴力や餓えに崩されていましたが、母親譲りのとても美しい声を持っていました。
 するとどうでしょう、岩の方から、この間の声が聞こえてきます。娘の声とその声は、同じ旋律を歌ってそっと重なりました。
 通り雨が止み歌うのをやめると、娘は自分がその声の主を怖がっていないことに気がつきました。
「ねぇ」
 娘は声のした方、岩の隙間を塞ぐ大石の前に立って声を掛けます。
「その……素敵な歌ね」
 すると大石の向こうの声は、気落ちした様子で応えます。
「ありがとう。でも、ごめんなさい。本当はあれは、求愛の歌なんだ。つい嬉しくなって一緒に歌ってしまったけど、本当は特別な歌で……その、申し訳ない」
「まあ!」
 娘は顔を真っ赤にして声を上げ、その後で慌てて付け足します。
「わたしが勝手に真似して歌ったからよ」
「しかし、歌の意味を知っていて勝手に重ねたのはぼくだ……」
 声の主も譲りません。娘はじれったくなって強く言い返します。
「別に嫌じゃなかったわ!」
 娘は言ってから言葉の意味に気がついて、今度こそ耳まで真っ赤になりました。そして、絶句している声の主にもう一度念押しします。
「嫌ではなかったから……気にしないで」

 それから何度も、二人は石を隔てて話をしました。
 そしていつしか、お互いのことをとても大切に思うようになりました。
 けれど二人はお互いの姿を知りません。相手に自分の姿を知られてはみじめで恥ずかしくて、もう話しもできなくなると考えていたのです。
 二人は相手の事情には触れずに、ただただ、沢山の短い時間を共に重ねました。

 しかしある日の夕暮れ、娘は石の前で、わんわん泣き出してしまいました。声の主も、流石に何も問わずにはおれません。
「どうしたんだ?」
 優しく尋ねると、娘はぽつりぽつりと話しはじめます。
 その日娘は、獣に襲われ泣き叫ぶ誰かの声を聞いたのです。娘はすぐに逃げ出しました。
「それは仕方がないことだ。君の判断は正しかったよ」
 声の主は娘の優しい心を知っていたので、そう慰めます。けれど、話には続きがありました。
 誰かの悲鳴を聞いて、娘はかつて出会った髪の短い女の子のことを思い出しました。どうして血が出るほど歯を食いしばったのか、どうしてあのとき獣に襲われたはずの女の子の悲鳴が聞こえなかったのかと考えたのです。
 娘はその理由に気がつきました。急に冷たくされた理由だって、本当はうすうす気がついていたのです。もう、見て見ぬふりはできませんでした。
 泣き止まない娘をどうにかなだめすかしながら、声の主は別の意味で衝撃を受けていました。
 声の主はそのとき初めて、娘が一人で泥炭掘りをさせられていることを知ったのですから。

 次の日、いつものように丘を越えようとする娘に、石の向こうの声は話し掛けます。
「君に貸してあげたい物があるんだ」
 突然どうしたのかと不思議がる娘に、声の主は続けます。
「気がついていると思うけれど、ぼくは人間じゃない。君にとって恐ろしい姿をしているんだ。今から手だけ出すから、どうか包丁を受け取ってほしい」
「……わかったわ」
 娘が答えると、大石が少しずらされ、鋭い爪をもつおぞましい手が出てきました。
 娘はその見た目に慄いて腰を抜かしそうになりながらも、なんとか包丁を受け取ります。
「その包丁はね、なんでも切れるんだよ」
「えっ」
 説明に驚く娘に、声の主は更に続けます。
「ぼくは妖魔だからね」
 その後どうやって丘を越えたのか、娘は覚えていません。けれど気持ちが落ち着いてくると、妖魔の手の様子が思い出されました。包丁の柄をこちらに向け刃を指で摘まんで寄越すその手は間違いなく、いつも話していた声の主の手です。
 ですから娘は帰り道、隙間からにゅっと出てきた手にくちづけをして、包丁を握らせるといつもより慌ててその場を後にしました。

 それから二人は包丁の貸し借りに秘密の合図まで作って、束の間の幸せを味わいました。仕事が楽になった分の少し浮いた時間を、一緒に歌って過ごしました。

 さて、そんな娘を怪しむのは娘の家族です。
 相変わらず兄たちしか可愛がらない母親も、それぞれに娘を虐待する兄たちも、疲弊の見られない娘の様子が面白くありません。仕事を増やしてやっても軽々こなして帰り、どれだけ虐げても絶望しないのですから。
 そして、とうとう三番目の兄が、母親の言いつけで娘の跡をつけ、事の真相と秘密の合図を知ってしまいました。

 次の日の朝、母親は猫撫で声で娘に言いました。
「今日は泥炭掘りは休んでいいよ」
 娘にはすぐに、その言葉の意味がわかりました。ですから血の気が引いた顔で、無駄だと知りながらも口ごたえをします。
「だ、大丈夫です。わたし、行けます」
 すると母親は娘の顔をこん棒で殴りつけ、二番目の兄に命じます。
「おまえがこのグズを閉じ込めておいておくれ」
 それから一番上の兄と三番目の兄にはこう言います。
「おまえたちは私と一緒に妖魔退治だよ。農具を持ってきな」
 娘は泣き叫び抵抗しましたが、ろくな食事をしていない女が、力のある男に勝てるはずがありませんでした。
 母親は、普段は二番目の兄の虐待を……娘がそうされることを面白くないと思っていました。けれど恋人がいたとなれば話は別です。実に愉快な気分でした。
 母親と二人の兄は、意気揚々と丘に向かいました。
 そして大石の前まで辿り着くと、それをトントンと二回叩きます。それが娘と妖魔の秘密の合図だったのです。
「今日は遅かったね」
 何も知らない妖魔はそう言って、包丁を差し出しました。
 母親はそれを乱暴に受け取ると、すっぱりと妖魔の手を切り捨ててしまいます。
 そして、娘とそっくりの美しい声で言いました。
「妖魔なんかが人間に関わるからこうなるんだ!」
 妖魔は痛みに思わず恐ろしい叫び声を上げます。それから、息を乱したままこう言いました。
「君が心変わりしたのなら……」
 兄たちは妖魔が襲い掛かってきてもいいように身構えます。けれど、妖魔は飛び出してきません。
 いつまで経っても妖魔が現れないものですから、三人は岩の隙間を覗き込んでみました。
 そこには、もう誰もいませんでした。

 母親と二人の兄たちは妖魔の手を持ち帰り、娘と二番目の兄に土産話を聞かせました。母親と三人の兄たちはいい気味だと言って娘と妖魔を嘲りました。
 娘は、楽をした罰だと言ってなぐられ、掴みやすいからと伸ばすことを許されていた髪もざん切りにされ、気絶するとそのまま外に転がされました。
 周辺では妖魔退治に報酬が出されていたので、四人は浮かれてビールを飲んで騒ぎます。
 今より楽な暮らしをして、娘のことはもっと虐げてやろう! 口々にそう言って楽しんだ後、四人は酔っ払ってぐっすりと寝てしまいました。
 真夜中、娘は痛みで目を覚ましました。
 這い這いに庭の井戸へ行き、水を汲んで顔を洗います。娘はひどく惨めで、心が引き裂かれるほど悲しい気持ちでした。
 もう死んでしまいたいとすら思いました。けれどそのとき、まぶしい月に照らされて、娘は水面に映った自分の姿を目にします。
 その短い髪は、まるであの日出会った女の子のようでした。娘はいつの間にか、その女の子の歳を追い越していました。
 娘は、あの日女の子に生かされたのだということを思い出しました。
 あの日、女の子が冷たくしなくとも自分が困るほどの手助けはしなかったかもしれません。獣に襲われた女の子が泣き叫んだところで助けに向かおうなどとは思わなかったでしょう。それでもあの女の子に生かされたのだと、娘は思いました。
 それから、自分がいつだって妖魔に救われていたことや、妖魔の包丁に助けられていたのだということも、娘には強く思い出されました。
 娘は意を決して立ち上がります。
「わたし、諦めないわ」
 そう呟くと家に入り、小さな鞄とパンを盗み、妖魔の包丁をこっそり取り返します。それから家族だった人たちを起こさないようにそっと抜け出しました。
 娘にはもう家もなく、金もなく、地位もありません。そんな娘が生きていけるほど、世の中は穏やかではありません。それでも娘は、妖魔の包丁を使って世を渡っていく道に賭けました。
 娘は真っ暗闇を歩いて、空っぽになった岩の隙間で一夜を明かしました。火もなしに夜道を往った娘が怪我のひとつもしなかったのは、神に守られたとしか思えません。
 朝になると、娘はそのまま旅に出ました。もう、自分自身の崩れた容姿も気になりません。
 娘は今度こそ妖魔に会いたいと思いました。今度こそ、顔を見て話しがしたいと。


 娘のその後は誰も知りません。
 けれど娘は体の痛みも忘れて、力強く足を踏み出しました。
 あの歌を口ずさむ娘の胸には、消えない希望が灯っていました。

グリム童話アレンジということで分類上二次創作だとは思いますが、なんだろ、オリジナル要素多いし二次創作っぽくないとこがあるのでなんかこう、こっち。
くだらない感傷だけど、希望を抱く余地もないお話だったから、それくらいはあげたかったのです。

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