よい子も読める『人魚姫と自殺王子』

 寂れた神社に来てみると、裏袋が石膏になって固まったような温度のない目元を湛えて、賽銭箱のところに座っていた。
 あれから、半年くらい、か。秋だった季節は春になり、気温ももう暖かくなっている。
 僕は二、三歩の距離を置いたところまで歩み寄り、サングラスを外して、改めて裏袋と顔を合わせる。
「もしかして、僕に用事かい」
「なんでそう思うの」
 あらら。勘が外れてしまった。ならば居ない方がいいに決まっていた。僕は踵を返した。
「…………何?」
 数歩歩いたところで引っ張られて足を止めて振り向くと、裏袋が僕の腕を掴んでいた。健脚の裏袋は素早い。
「用事じゃないとは言ってない」
 まともに近くで顔を見ると、口の中に苦みが、おまけのように頬にもかすかに痛みが甦った。
「わかった」
 裏袋は目を逸らして、引き結んだ口をこじ開けるようにして言う。
「ニアの、話」
「わかった」
 覚悟は何度も重ねてきた。
 裏袋は居心地が悪そうに足元をぐらつかせた後、元居た場所に腰掛けた。僕もそれに倣う。
 裏袋はとても言いづらそうに、つぐんだ口をこじ開けては戻している。僕は黙って、言葉を待った。
「ね、ねえ、玻璃、綾乃……」
「なんだい、裏袋美住」
 普通に返事をした。でも、一応本名で呼ばれると危険に近づくので避けたいな。
 そんなことを思っているうちにも、僕の反応を受けて、裏袋の顔色がぱっと一段階改善する。
「なんでもない」
 裏袋の一言のせいで、僕と裏袋の会話はまるで蜜月の恋人のようなやり取りに仕上がった。
 気まずく思っているうちにもさっきのことを忘れてしまいそうだ。僕は手に持ったままだったサングラスを掛け直して言う。
「裏袋、一応ヤガミカズヒコで通ってるし、そう呼んで貰いたいんだけど」
「いやよ」
 固辞された。

 玻璃綾乃は玻璃綾乃なの、と。



 みんながヤガミカズヒコと呼ぶ男は、わたしが玻璃綾乃と呼んでもきちんと返事をした。それだけで、少しずつ溺れる寸前まで浅くなっていた呼吸が、一気に深度を増した気分だ。
 今のわたしが会ったり話したりすることができる人物でニアが大学生になるほど生きていた歴史を知っているのは、この男だけだ。
 わたしは、それに縋ってしまった。
 少しだけ敗北感を覚える。わたしはニアと玻璃綾乃が担った時間の選択を否定するのに。それに、会話が増えればそれだけ秘密が漏れる危険も増える。でも、安心したのは紛れもない事実だった。
 ふと顔を見ると、玻璃綾乃はいつの間にか、サングラスを外していた。
「うん?」
 わたしの視線を受けて、微笑む。
「ああ、一応人相を隠した方がいいからあんまり外せないんだけど、ない方がやっぱりよく見えるね」
「……当たり前じゃない」
 呆れた後で、サングラスの外れたその顔つきに、これまでとこれからの年月を、少しだけ感じ取る。こいつは、寂寞から離れられない人生を九年前から、これからも、過ごしているんだろう。うっかりした。また嫌なものを見てしまった。
 やっぱり、縋るべきじゃない。
「……あ」
 何故か口がありがとうと言いたくなって、なんか違う、とひっこめた。
 黙っていても居心地が悪くないことが、何よりも居心地悪かった。



 裏袋の表情がまた少し固まってしまって、僕は頭を掻く。
 僕のせいかもしれない。かといって、解消のために僕の助けを要して納得する裏袋ではないだろう。あちらから頼むこともなければ、こちらからの申し出だって蹴るはずだ。
「うち来る?」
 待て。ナンパしてどうする。
 こうした短絡的なのかなんなのかわからない言動には、偶に悩まされている。人間、歳を取ると複雑な機微を丸投げしてとりあえずの型を使って喋ってしまうみたいだ。
「はぁッ?!」
 険のある大声が耳に刺さった。そりゃそうだ。
「ははは、冗談……」
「あ、待って。やっぱり行く」
 撤回の途中で裏袋が誘いに乗ってくる。
「どういう心境の変化で……?」
 恐る恐る尋ねると、裏袋はやけに歯切れよく答える。
「わたしが助手をしてた時とどれくらい違うのか気になる。松平貴弘の私物、貰ったのも使ってるって言ってたでしょ」
「確かにそうだけど」
「それに、まだニアの話してないし」
 それを言われると弱い。
 あんまり若い女性を上げたくないなぁ、なんて馬鹿なことを思う。僕の伴侶は多分、生涯あのときうどんを食べる約束をしたマチだけなのだ。そして彼女と同じマチである同じ今を生きるマチを見守って生きていると。
 そんな決意はともかくとして、実際どんな思考の転換を経たんだろうか。
「いいじゃない別に、わたしとあんたの仲なんだから」
 ……………………あぁ。
 そしてどんな仲だとつっこむ前に裏袋が僕の袖を引いて歩きだしてしまう。確かにタイムトラベル仲間と括ってしまえばそうなんだけど。
 ずんずん歩く裏袋の後ろを歩く。裏袋が歩けない世界のことはさほど知らないが、車いすの世話になっている姿よりも、ずっとしっくりくる。
 既に袖から手を離した早足の裏袋の後ろを追いかける。これじゃあ誰の家に行くんだか。
 道に出る頃、歩きながらサングラスを掛けた。



 彼の家(これ家でいいの?)にも、何か手掛かりになるものがあるかもしれない。わたしはそこのところでの手段は選ばないことにした。
 ニアという反則技を使ってしまったけど。
 とはいえニアの話をしたい気持ちも事実だ。どれくらいのことを話せるだろうか。



 僕のねぐらは、それはそれは引っ越しを勧められることが多い住み処だ。盲点みたいなところに住んでいて家を知っている人がそもそも少ないから、勧める人も少ないけれど。まあ、相対的に。
 そんなボロ屋に一室だけの洋間の真ん中に置かれた丸テーブルの上に、お茶を置く。
「どうぞ」
「……いただきます」
 先にテーブルの側のイスに座っている裏袋の左側、僕はイスより一段低い、ベッドに腰掛けた。来客もないし僕しか居ないから、イスはひとつしかないのだ。
「ボロっちい」
 裏袋が漏らす感想に思わず笑う。僕の家に来るのは初めてだったはずだ。本当に、僕に似合いのボロさだと思う。しかし使い主がどうあれ、これがボロくなくなることは絶対にないだろう。
「でも、あんまり散らかってないのね」
 心なしか寂しそうに、裏袋がぼやいた。
「うん」
 実は松平さんの私物はいくらか引き継いだもののほとんど捨ててしまっていた。僕にはどうしようもないものばかりだったし。
 暫くは二人とも、お茶を啜るのに忙しくなり、沈黙が降りる。
 この日常の苦痛が滲む顔を、両親はどう見ているのだろう。前に裏袋の母親とばったり会ったときは確か「二度目の思春期かしら」と笑っていたはずだ。今も呑気に構えているんだろうか。
 呑気に構えてそうだな。そもそも、いつも元気がないわけではない。なんだかんだ言って、自転車に乗っているときの裏袋は元気で、嬉しそうだ。
「ねえ玻璃綾乃、ニア……大学生のニアにも、会った、よね?」
 裏袋がお茶を口元に寄せたまま、恐る恐るな調子で訪ねてきた。
「うん。僕にとっては九年も前だけど」
 裏袋がどれくらいのことを知り、どれくらいのことを考えているのかはわからない。知りたいと言われたとき教えてやれるかも、正直わからなかった。
「……そっか。ニア優しそうな顔してたでしょ。ちょっと女の子っぽい」
「うん。線が女性的だなぁとは思ったかな」
 既に霞がかった記憶から印象を取り出した。
「あの、さ……」
「うん?」
 裏袋が露骨に目を逸らし、険しくさせる。
「声、は、流石に覚えてないよね?」
「…………」
 僕は近雄の声を思い出そうとする。あのときのあの台詞を、声の震えを覚えているはずだった。だが今再生できるのは、裏袋に伝言を伝えたときの自分の声だけだった。
 視線がこちらに向いたので、ゆっくり深く頷く。
「そう。九年も前だもんね」
 写真も音声も残っていない近雄の見た目や声の記憶は、驚くほど早く色褪せていった。そこにはもう、淡い雰囲気の残縡しか残らない。
「わたしにとってはつい、半年くらい前なのに……」
 そう呟いたきり、裏袋は黙ってうなだれてしまう。
 僕はただ、今までそうしてきたように見守ることしかできないのかもしれない。今度は近雄の墓で、あまりよくない報告をすることになってしまいそうだった。
 僕は言葉に迷った挙げ句空の湯飲みをテーブルに置いて立ち上がり、裏袋の頭をそっと撫でた。中身は違う裏袋だったけど、昔もこうしたことがあった。
 裏袋は、拒絶しなかった。



 手掛かりもなく、思い出話も早々に地雷に当たって、わたしは潰れそうな気分になっていた。
 弱くなったわたしに触れる玻璃綾乃の手はたくましく、大きい。この歳になって頭なんか撫でられて、参ってしまう。
 不快ではない。
「玻璃綾乃……」
「何」
 絞り出した声への返事はあくまでも穏やかだ。
「ニアが好き」
 結局言うことのなかった、このままニアを許さなくてもきっと『このわたし』が言うことのない言葉が溢れた。
「うん」
 穏やかすぎる相槌に、思わず顔を上げる。玻璃綾乃は見守るように微笑んだままだ。
「わたしね、ニアが好きなの」
 顔を見たまま言うと、玻璃綾乃はふっと息を吐いて、そのままわたしの前髪をかきあげ、額にキスをした。



 何故かキスしてしまった。
 外人俳優が映画か何かで子供たちにするようなやつだ。
 裏袋は、ぼろぼろ泣き出してしまった。
「あ、ごめん……いや、深い意味はなくて……」
 おろおろ狼狽しながら言い訳をしても、裏袋は泣くばかりだ。もうちょっと女性と関わる機会を持っていればもっと何か適切な振る舞い方ができるのかもしれない。いや、そんな機会があってもこんな場合どうしたらいいかはわからない気がする。
 裏袋は首を横に振る。
「ごめん」
 もっと振られた。意味を測りかねて、他の言葉を忘れてしまう。
「……ごめん」
 首を振られるのがわかっていて、同じ言葉しか繰り返せなかった。
「い……いやや……なっ…………あやまっ……で」
「ご、ごめん」
 途中でしゃくりあげすぎて何を言ってんだかさっぱりわからん。
 『嫌やな謝って』と言っているように聞こえた。なんか違う気がする。こんな関西弁(?)なんか話さないだろうし
「ごめん裏袋、今の全然聞き取れなくて……」
 言葉の途中で僕は襟元を引かれる。裏袋は空いた右手を、次に最初襟元を掴んだ左手を、順に僕の首に回した。呼吸が震えて、何か話そうとしているようにも思える。
 僕はそれに従い、座っている裏袋の声を聞き取ろうと姿勢を低くする。しかし、僕の考えは外れていた。
 裏袋は、僕の右の眉下辺りにキスをした。
 まさか、さっきのは『嫌じゃないから謝らないで』なのか?



『嫌じゃない。謝らないで』
 二言だけなのに伝わらない。わたしは痺れを切らして、玻璃綾乃にキスを仕返した。
 これでも謝ってきたら今度こそ殴ろう。
 玻璃綾乃は目を丸くして『ごめん』をやめた。
「……いやじゃないから」
 やっとそれだけ話して息を調える。
「ほっとしちゃっただけ」
 それから、心境を端的に告げた。
 話して撫でられて緩んだ緊張の糸が、ほどける前に溶けてなくなってしまったのだ。
「はーぁ、あんたに甘えるなんて最悪」
 口にしてから、自分が甘えていることに気づく。玻璃綾乃は目を丸くして、次に年月の丸さが浮かぶ顔で微笑んだ。
「甘えるくらいしていいよ」
 許さないでほしかったのに。
 意地が張れなくなって、縋ってはいけないという思慮が霞んで、温めたバターみたいに溶ける。
 わたしは嫌うことを手放したあのとき、弱くなってしまったんだろうか。
 同じ種類の人間で似た齟齬を背負っている、この歳の離れてしまった同級生と体温を分け合いたくなってしまっている。
 わたしは首に回した腕をそのままに立ち上がり、ぎゅっと、玻璃綾乃に抱きついた。
 タイムトラベルのことはここに至るまでだけでも随分学び、考えてきたけれど……。恐らくこの男はわたしと同じように、記憶しているものとは違う自分と混ざり、帰るはずの、大切な人との世界を失っている。
 そして、自分で選んで、自分を失っている。
 玻璃綾乃はわたしと、多分ニアとも似ていた。



 首に回っていた骨ばった手首が柔らかな腕に替わり、僕は裏袋に抱きしめられた。
 肩口に鼻をすりつける裏袋の小さな声がする。
「……似てる」
 反射的に、僕と近雄はあまり似ていないのではと思う。もしかしたら似てるのかもしれないけど、それを言うなら状況的に……というところまで考えて、合点が行く。
 僕と裏袋は少し似ている。
 そしてどういう思いなのかを理解するのと同時に、僕も自然と裏袋を抱きしめていた。背中が骨っぽくて腰が細い。食が細っているのではないかとよぎるほどに華奢だ。とてもとても、ここ半年自転車に乗って速く走らせるところばかり目につく人間とは思えない。
 体温が染みつくのがわかる。じわりと汗が滲んだ気がした。
 シャンプーか整髪料の主張が目立つ髪の匂いには潮気が混ざっていて、それでも温度が近づくと人の皮膚のものが主立っていった。ふわふわ曲線を描いて流れる髪の色はほぼ均一で、淡い。
 僕のすべては、マチだ。マチのためになら死ねるし、マチのためになら何年だって生きていける。どんなに長い時を、罰と不安と共に過ごすとしても。
 なのに、時間の流れに心だけ取り残された裏袋が、僕と自分を重ねて触れ合いを求めることを受け入れてしまった。
 裏袋の腕が緩んで、僕たちは距離を取る。
 再び見た裏袋の顔は、あのかたさや温度の低さが嘘のように緊張を失っていた。一体いつからあんな風に無理に肩肘張っていたんだろう。
「よしよし」
「…………」
 睨まれたのは無視して、頭を撫で続けた。

 人間泣くと疲れるものらしい。暫くすると裏袋はうつらうつらしだした。ベッドを貸すと提案すると最初は固辞していたものの、一度寝ころんでしまえば早かった。
 明日からのび太くんって呼んでやろう。くだらない思いつきに自分で吹き出す。そして忘れないうちに濡らしたタオルを裏袋の目の上に置いた。これで腫れは引くだろう。
 僕はイスに落ち着き残ったお茶を飲み干して、裏袋の寝顔を見る。眠っていると、本来の顔つきの柔和さがよくわかる。性格は全っ然柔和じゃないからなぁ。
 寝顔を見ているうちに僕も段々眠たくなってきて、ちょっとのつもりでテーブルに突っ伏した。



 タオルを外すと、月明かりがカーテン越しに微かに漏れていた。電話の声が聞こえる。
「…………はい、それで調べ疲れて眠ってしまって、いつ起きるのか……え? 泊まり? 流石に若い娘さんが…………はい、そうですよ。男は狼ですから。それじゃ。ええ」
 電話を切ってため息をついた玻璃綾乃がお茶を啜る。蛍光灯のとこの小さい電球くらいつければいいのに。
 寝ぼけているせいか、一人分しかないイスに座る一人の玻璃綾乃が、正しい姿に思えなかった。本当は正面に誰か……。
「おはよう」
 話し掛けられて、違和感が霧散する前にわたしは悟る。
 ああそうか、もう一人にはテーブルにつくための『イス』は邪魔になるだけなんだ。わたしが知らない『時間』のマチは、記憶にあるかつてのわたしと同じものに座っていたのだ。
「こんばんは」
「ごめん僕まで寝てた」
 …………うわあ。最悪だこいつ。明らかに長時間が経過している。
「裏袋の母さん、もう泊まらせてもらっていいかしらーって言ってたけど断っといたから」
「当然じゃないの」
「さて」
 不機嫌なわたしを見事スルーした玻璃綾乃は立ち上がって電気を点ける。そしてなんでもないことのように言う。
「今後もちょくちょく遊びに来ていいよ。松平さんの手掛かりは一切ないけど」
「………………なんで手掛かりないのにあんたの家なんか来るのよ」
「いいじゃないか別に、『僕とお前の仲』なんだから」
「死ね」
 わかっていたのか。確かに不自然だった自分を振り返って歯噛みする。自信満々過ぎて腹が立った。
「お茶菓子くらいは出るんでしょうね」
 期待せずに言うと、玻璃綾乃はボケのように冷蔵庫と戸棚を一度開閉して、乾いた笑いを発する。
「はははは。ないない」
「……今度はなんか持ってくるわ」
 ここで手掛かりを探すふりをした分だけ、玻璃綾乃は油断するだろう。
 それに、九年ずれた玻璃綾乃は、時間旅行が可能であることを、わたしに可視化して見せ続ける。あのニアを覚えている、玻璃綾乃は。
 他にも理由はある。なら、お茶くらい飲みに来たっていいだろう。

 帰り際、わたしは小さな声で、つい出来心で、口が言いたくなった言葉を伝えた。
 こちらこそと同じ言葉を続けられた気がしたのは、聞かなかったことにして胸に仕舞った。

よい子は読めない(単に18禁なだけ)版はぴくしぶに。

おまけ絵

なんか色々変な気もするけど……………………えっと、個人的解釈以外で間違えてたらごめん。
視点ころころ変わるのってどうなんだろー。

13/03/14まったいらさんの研究所跡がある設定→いや流石にそれは流石におかしいだろないって名言されてるし。え、三週目とか?→おためごかしをしたらもっと変になっていたしあとがき書き変え忘れてた\(^o^)/
という変遷をたどっていてだな。旧作なのだから放っておけって方法論が自分に通用しなかったからまた更新した。でももう諦めようと思った! いえい!

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