ある日ある時、着信があった。
 普段ならば、きちんとした対応など出来ない故無視を決め込むはずだったんだろう。それなのに僕はその日、うっかり電話を取ってしまった。

変身

 まぶしい。日が、差している。
 気づけば僕はその部屋に立っていた。
 手の中には開いた状態の携帯電話があり、すぐ側に机、その上にパソコンと携帯電話。全体的に物が少ない。
「……っ」
 僕はまず驚く。自分の体がいつもとまったく違う。望んだ変身を、突然遂げてしまったかのように。
 次に、周りを見渡してみるけれど、元の体らしきものはない。
 僕は恐る恐る手や足を動かす。不思議なことに、他人の体でも意外と融通はきくらしく、動かすのがとても難しい、ということはなかった。咄嗟に手の中の携帯電話のボタンを押す。その携帯電話は、沈黙を保っていた。
「僕は……」
 声を出す。中性的というより女性的な、少しかすれた声質。僕は動揺した。僕が女性?
 自分の体の表面が粟立つ感覚を初体験しながら、陸に上がった上に酸素すら失った鯨のような気分に眩暈を覚える。
 なんどか手足をもつれさせながら探しだした鏡を見てみる。あまりに中性的でわけがわからない。
 ふと喉をさすってみると、少しのでっぱりが指にかかった。
「…………」
 ほっとして、少し冷静になり、胸元や股間を検める。確実に男だった。
「アイデンティティは、『僕』で、よし」
 口に出して些末とも言えることを確認する。今までの体とまったく違う時点でアイデンティティも何もないのかもしれないし、女だったところで『私』に直す必要はないのかもしれない。けれど、やはり性別も内面に干渉するのでつい慌ててしまった。と言ったら、出過ぎた望みに対する照れ隠しの嘘に、なってしまうのだろうか。
 彼女を信用しないという選択肢は敢えてもうなしにして。
 僕の性別が女であったなら、彼女の隣に、一番夢見る形で立つのが、困難になってしまうから。
 一気に変身してしまったからと言って、何を急にロクでもない望みを抱いているんだろう、僕は。


 半日かかってまず身体に慣れた。それから、引き出し等を漁って、色々と調べて
「………………」
 色々と眩暈のすることだらけだった。それでも、机の上の携帯電話に、慣れ親しんだメールアドレスを空で入力し、メールを送った。
『こんばんは。事情があってアドレスが変わっていますが、メル友の僕です。なんて書くと、俺俺詐欺みたいですね(笑)。僕の方に変化がありまして、直接、お話しがしたいです。今更木が変わっても困るようでしたら、無視してくださって構いません』
 送って、床の上でジッとする。なんだか全て元に戻ったような錯覚を感じて、早まったメールをしたのではないかと、何度も、体を動かして自分の意識の先につながっている手を目視する。あまりに落ち着かないのでベッドに倒れ込んでもみる。埃が鼻に入って噎せた。
 どちらにしろ性急だということは分かっている。けれど、順当な変身ではなく、こういった不測の事態なのだ。いつどうなってしまうのかと思うと、考えなしに可能性に手を伸ばしてしまう。恐怖と高揚と遅すぎる自制心と期待が、体に収まりきらなくなったように内臓や筋肉をざわつかせる。
 そうこうしているうちに、彼女からメールが来る。
『こんばんは。えぇっ!? 突然ですね。とんでもない変化しちゃってますよ!(笑)』
 そこまで驚かせてしまったのか。僕は心苦しさと後悔を感じながら、表示しきれていなかった続きを、ボタンを指でなぞることで表示させる。
『一応、私はまあ、大丈夫、ではあるのですー、が、場所や時期はどうするのでしょう? というかホント、びっくりです(笑)。とりあえず、まずはお電話しませんか? よろしければ、ですが。番号は……』
「………………」
 どうやら僕は、とんでもなく早まったことを書いてしまっていたらしい。
 ふわふわと意識が宙に浮いたままの僕は、もう覚悟を決める間すらとらずにその番号に電話を掛ける。
 手の中にある携帯電話が、一定のリズムを耳元で歌う。
『……もし、もし……』
 ぎこちなく、声がした。上擦ってはいるものの、想像より少し低い声だ。
「もしもし、あの……」
『は、はい』
「電話のことを、言いたかったはず、だったのですが、うっかり、あんな書き方、をしてしまいまして……」
『………………』
 呼吸の音が微かに聞こえる分、メールの沈黙のように沈むことを許さない通話での沈黙は、時間を引き延ばしてキリキリと僕の神経を締めつけた。
『……な、なるほどー。すいません、私もかなり早とちりでした』
「いえ、僕が、紛らわしかっただけなので」
『そそんなことないですよっ』
 数分、デジャビュを感じる謝り合いが続き、落ち着いた頃ポツリと、彼女が爆弾発言をする。
『ところで、本当に会ってみる、というのはどうでしょう? いつかどこかで』
「…………」
 思考が砂漠の砂になった。掬いあげて言葉にしようとしても、指からすり抜ける。
 口をパクパクさせるしかない間抜けな僕に、彼女は慌てて声を飛ばす。
『すみません! なんとなく言ってみただけなのでホント、気にしないでください!』
「い、いえ……」
 砂漠の砂になった思考に唾液を垂らして無理やり一部だけ掬い出して、半分自棄のように事実だけを語る。どうしても僕は、嘘を避けて通ろうとしてしまう。
「今、こうして電話出来ている状況、というのが特殊、でして。だから、約束は出来ないな、と。それだけです。やっぱり今回も貴女には、落ち度はないです」
 メールで(笑)とつけるのは簡単でも、まだ不慣れの体で笑ったような語尾を作るのは不可能で、自分の平坦な声を聞きながら、発言をリアルタイムで後悔した。
『……どうしましたか? なんだか落ち込んでるっぽいですよ?』
 心配そうにそろりそろりと喋る彼女の声色は、メールから想像した喋り方そのもので、安堵に心をかき乱される。
「いや、変身を果たしたら逆にブルーになってしまった、というか」
 今度は上手く笑えた気がする。
『なるほど。マリッジブルーみたいなヤツですね』
 合わせて声色を明るくする彼女の気遣いが痛み入る。
「いやまー、そういうものでもあると思います」
『うーん、やっぱり難解ですね、貴方は。謎の人スメルがするぜェ。なんて』
 何かの台詞を読むような快活な悪ふざけに、思わず吹き出す。笑うのが初めてなので刺激で噎せた。
『だ、大丈夫ですか? というか何故そんなにツボにっ』
「い、いや、つい、面白かったので」
 そして彼女は、第二の爆弾発言をする。
『そういえば、今私迷子なんですよ』
「迷子……というと?」
『そのままです。ふらっと、休みだからって地元を出てみたんですが、ここどこなんでしょうね』
「え、何してるんですか。というか、電話、している場合じゃないでしゅよ!?」
 噛んだ。今度は彼女のツボに入ったようで、しばらく笑い声が止まない。ひどく笑い上戸なようだった。
『すいません。一人旅で興奮気味なのもあって、ツボに入りやすいみたいです。
 あ、現在地なんですけど、なんとなく地名はわかるのですが、それ以外が殆どわからないんですよ。ここから漫画喫茶の看板は見えているので宿の心配はしてません。現在地はですね……』
 と、彼女は『何県何町何丁目』かを大体把握していることを、具体的な地名で証明してみせた。奇しくもそこは、僕が先程知った現在地と程近い場所だった。
「……近いですね」
 殆ど意識せずに口に出していた。
『……えっ。そう、なんですか? え、っと、貴方のおうちですか?』
「は、……はい」
 電波越しの音声でお互いの動揺を伝染させ合う。きょどきょどしていても仕方がないのは分かる。それでも、この事実をどうしろというんだろう。僕には大きすぎる。突然すぎる。
『はー……地元なんですねー……じゃあ地理も詳しくありませんか?』
 仕切り直すように彼女が言ってくれなかったら、僕はどうなっていただろう。頭が上がらない事実が積まれたことに安堵する。先程から、彼女を自分と同じ所に落として見ているのではと、不安があったのだ。
「うーん……実は、極度の方向音痴でして」
『そんなー、全然知らないわけではないんですよね?』
「いや、本当にわからないんですよ」
『ぐぬぬー、人によりけりですね』
「ですよ」
 そこをまず納得して貰い、しかし浮ついた期待と沈みこんだ不安で足元が不安定なことに代わりはない。ずっと部屋の真ん中に棒立ちのままの足が感覚を失くしていくような錯覚を感じる。
『……すごくすごく突然で、失礼なことを言っているとは思うのですが』
 バリバリした音質が、彼女の吸気を大きく拾う。
『よかったら、ちょっと、顔を、合わせてみませんか?』


 クローゼットから出した無難そうな服を着て、一応財布も拝借して鍵を探し、見つけるとドアを開ける。外の空気は、静謐さを感じさせるほどに冷えていた。息が微かに白い色をしている。空の裾を地上の光が僅かに明るく染めていて、それ以外の部分は概ね、闇と水を混ぜたような深い藍色だった。チラチラ光る星を見て、思わず手を伸ばす。当然届かない。こんなに広い空を見るのは初めてだった。
 何せ一度も部屋を出たことがなかったのだ。
 眼下に広がる町はごちゃごちゃしていて、道を知らなければ迷うのは簡単そうだった。マンションの一本向こうの道に、漫画喫茶の看板があった。窓から見たときは偶然に驚いて、窓をとっぱらって見た今は大きさに驚く。よくよく見ると他の建物も大差はない。ただ、件の漫画喫茶は周り二、三軒の建物は地味なものばかりなので、少しくらいなら迷子になってもそこになら戻れそうだった。
 鍵を掛けるのを忘れないように注意して部屋を後にすると、エレベーターを使って(妙な浮遊感)外に出る。
 上からは単純そうな道に見えた。それでも実際に降り立つと不安になる。ふと、以前彼女が実際に入れる巨大迷路に挑戦した話しをしてくれたことを思い出した。苦労してゴールしたあと迷路の地図を見ると、そこまで難しそうでもなかった、と言っていた。
 僕はどうなのだろう。迷って待ち惚けさせることだけは絶対に避けたかった。とりあえず、上から見て正しいと思った道を行く。
 三分ほど歩くと、待ち合わせの漫画喫茶の前に出た。一瞬そこに居る女性と目が合い、逸らし合い、もう一度合わせ、お互いに曖昧な色をしているであろう顔色を覗う。女性は意を決したように小さく頷くと、右手を挙げた。
「は、はじめましてー」
「はじめまして」
 意外にも彼女とあっさりと顔を合わせてしまった。
 僕は言葉より後に一瞬右手を挙げて、そのタイミングの不自然さに少し居心地が悪くなる。
 彼女は眼鏡を掛けた、のんびりした顔立ちの女性だった。茶髪の混じった、肩より少し下くらいまで伸びた黒髪は癖が出て多少うねっており、それを上部分だけ後ろにまとめている。
 全体的にパッと明るくするような、想像していた雰囲気とは違った。なんだか、ほっとする雰囲気を持った人物だった。
「……あのー」
「え、は、はい」
 彼女がもじもじ赤面し、上目づかいに声を掛けてくる。何か指摘しづらいような、何かマズい部分があっただろうか。
「あんまり見られても照れます」
 彼女は僕のあるまじき、特に初対面にあるまじき失態を、たはーとゆるく笑ってみせる。やはり天使か何かとしか思えない。
「あ、す、すみません」
 僕は慌てて視線を外す。どこを見ていいのか分からなくなり、結局視線のやり場が分からなくなり、少し酔って、それからやっと、視線は足元に落ち着く。
「…………」
 かなり引かれたかもしれない。
 ちらり、と彼女の顔を見る。
「ふむん」
 今度は僕がジロジロ見られていた。思わず、感情と無関係な速度で赤面(顔が熱くなった)する。次に、やっと気恥しさが沸いた。
「あ、あの……?」
「あ、すいませんつい。そんなに緊張しなくていいですよ。あ、でも貴方がどうにも緊張しているので、私は大丈夫になってしまいました」
 彼女がにこにこ笑うので、僕もつられたのか表情を動かす。
「というか、女性だとは思っていなかったので、びっくりです」
 彼女は、至極真面目な顔をしていた。
「……は」
「あれ」
 さっき確認した。いやでも彼女が女性と言うのなら僕は女なのかいやいや、体は調べたし、いやでも彼女が………………そうだ最初僕もどっちかわからなかったんだ。
「……………………男ですよ」
 この間を彼女にどうとられるのかと思うとかなり怖かった。メールの返信のように別の用事を騙れない、目の前に横たわる間は、本当に恐ろしい。この短い時間でそれを痛感している。
「ぅあ、す、すみませんっ。なんというか、お綺麗なので、つい、ついっ」
 おろおろと赤面して謝る彼女を見て、あまりの勢いにこちらまで恐縮してしまう。
「い、いえ、あの…………よく、よく間違えられるので!」
 しばらく二人でおそおろしていた。だけど一応すぐに収まりはついた。大通りから一本狭い道に入っているせいか通行人が居なかったのが幸いだったように思う。
「えっと、顔、合わせましたね」
「そ、そうですね」
 控えめな狂乱が止むと、気まずさが場を支配しだす。こういう場合は、えっと……。
「あ、あの、これから予定、ありますか?」
 彼女がそれを打ち破らんと口を開く。
「え、いやないです、けれど」僕は、ない。
「じゃああの、この為だけに寒い中出ていただいちゃったというのも座りが悪いので、お茶でもしませんか」
「あ、はい。いいんですか?」
「はい、任せてくださいっ。コーヒーくらいなら奢れます」
「き……っさてんか何かご存じなんですか?」
「…………あ」
 そこで再び、気まずい雰囲気になってしまう。僕は少ない記憶から喫茶店を思い起こそうとした。何も浮かばない。ただ、来る途中に飲食スペースの併設された本屋を見かけたことを思い出した。
「飲食出来る場所がついた本屋なら、あるんですが……」
「ほんやさん……」
 斜め下を向いたまま目の焦点の合わない彼女が、その単語だけを拾って繰り返す
「はい」
「本屋さんなら……かなりいいですね。ついでに本も買えば移動中の時間潰しに出来そうですし。大丈夫ですか?」
「はい、読みたい本もあるので」
「いいですね。じゃあそうしましょう」


 本屋の飲食スペースは、本を読んでいる客が多いので、とても静かな場所だった。僕は自動販売機の前でしばらく悩み、結局彼女と同じ、紙コップ入りのホットレモンティーを飲む。
 体と飲み物に温度差がありすぎるのか、味はまだわからない。ただ、外気で冷えた人体に温かい飲み物を入れると小さな震えが来ることと、こういった飲み物は『あたたかい』と語りながらも熱いことを体感した。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫れす」
 彼女は僕の発音に笑みをこぼす。今まで見てきた他の笑みを真鍮とするなら、彼女の笑みは木材で出来ているような温かみを持っていた。
 それにしても、熱かった。彼女の真似をしてそっと口をつけなかったら、もっと危ないところだった。僕はひとまずレモンティーをテーブルに置く。
 飲食スペースは温かみのある色に塗られた壁に囲まれていて、本のあるスペースよりは少し暑い。白い椅子とテーブルが四組置いてあるささやかなスペースだ。
 彼女はもこもこした上着を脱いでいて、白いハイネックのセーターと赤を基調としたチェックのワンピースを屋内の空気に晒していた。
「そういえば、読みたい本というのは、何なんですか?」
 レモンティーを啜って、彼女は言った。
「うーん……わかりません」としか言い様がなかった。
「わかりませんか」首を傾げる。
「そうなんです」つられる。
「では、えっと、どうして読みたいと思ったんですか?」元に戻る。
「うぅん、見たことのあるフレーズが、気になりまして……」曖昧に笑……えただろうか。
「ああ、それなら店員さんに聞けばわかるかもしれませんね」明るく笑う。
 そうしながらも彼女のレモンティーは確実に減っていく。僕も恐る恐る口をつけると、先程より冷めたようで、少し早めのペースでも飲めた。
「ちなみに、どんなフレーズですか?」
「……っと……」
 僕は無意識にレモンティーに目を落とす。あの言葉を僕なんかの言い方で外気に晒すのが、怖い。単語からして酸化しやすい脆い言葉だ。それを組み合わせた言葉を口に出すことに畏れを覚える。
 つまらない言葉だと、思われないだろうか。
 唾を飲み込む音が耳の中を圧迫した。
「……『愛は祈りだ』って」
 彼女を覗おうとする前に、彼女は言う。
「舞城王太郎ですね」
「まい、じょー、追う太郎?」どんな字を書くのだろう。
「はい。それなら知ってますから、一緒に探せます」
 彼女はにこにこしながら、弾んだ声で言う。
「えと、好きなんですか?」
 言ってからレモンティーを飲み干す。いい加減味に神経が及んできた。甘いくて美味しい、というのはこんな感じなんだろう。普段甘味など口にしない生活をしているので、自分の中の表現もさぐりさぐりだ。
 ただ、頬の筋肉が緩んでいるのが分かる。どの辺りがレモンらしく、どの辺りが紅茶らしい味なのかは分からないけれど、香りと味にほっとする。心地良かった。これまでが味気なかっただけかもしれなくても、今のこれの価値は薄れなかった。
 彼女に視線を戻すと、返答に少し悩んでいたようだった。
「えぇと、うー、ちょっと難しいです。でも知ってるのでっ」
 彼女の応えは文字化けした絵文字のように難解で、意味がわからなかった。けれど、僕は頷いておいた。
「とりあえず、探してみましょう」
 それから、彼女もレモンティーを飲み干すと備え付けのゴミ箱に捨て、善は急げとばかりに席を立つ。僕も、それを真似た。
 彼女の半歩後ろを歩く。彼女はまるで自分の縄張りを行く水鳥のようになめらかな足取りで本棚の間を泳いでいくので、僕は雛鳥のように後に続いた。
 彼女はまるで店内に見覚えがあるかのように迷わず歩き、すぐに『舞城王太郎』を見つけて振り返る。
「これです」
 少し小声で言いながら、彼女は一冊の本を僕に差し出す。
 それは、甘くくすんだピンク色の表紙の文庫本だった。タイトルと、絵本かなにかの表紙に描かれるような雰囲気の何かが描かれていた。
『好き好き大好き超愛してる。』
 あの一文から想像していたようなものとまったく違うタイトルだった。恐る恐るその本を受け取る。
「……あ、ありがとうございます」
 小声の出し方に自信がなかったものの、なんとか小声で礼を言うことが出来た。
 それから彼女はついでのように、慣れた手つきで隣にあった『スクールアタック・シンドローム』を取り、レジのある方へ僕を手招く。わからないことばかりの僕なんか引き連れて、彼女は面倒にならないんだろうか。
 なんとか会計を済ませ元の席に着くと、彼女は子供が秘密基地で内緒話をするような仕種で手を口の横に添えて、でもそれほど小さくない声量で喋る。
「私は読むの遅いのですが、後でも読めるので、読み終わったら教えてください」
 僕は頷いた。純粋に、有難い。
 いやでも突然向かい合って読書……? 僕はそんなに早く読みたそうな顔をしてしまったのだろうか。
「…………」
 彼女の顔を窺っても、僕に出来ることはなかった。うん、ここは、甘えてしまおう。
 それから本の中の文字に身を投じる。僕が感銘を受けた言葉は、僕がこの状態になっても尚、その訴えかける何かを曇らせることはなく、それどころか全体の文章に揉まれた僕が酩酊した状態で読み返すそれは、更に何かを孕んでいる感じがした。
 もし彼女に感想を聞かれてもすぐには言葉に出来ないだろう。僕は語彙のなさをこっそりと恥じた。
 気を取り直して、表紙を眺める。幸いにも速読なので、十分程度で一周出来た。彼女を見るとあまり進んでいない様子なのでその様子に甘えてもう一周、今度は暗記するような気持ちで読む。
 それも終わってしまい、もう一度彼女を見る。
 彼女と目が合った。
「あ、すいませんまたガン見……」
 そう言って彼女は本に視線を落として、頁と頁の間に指を挟む。
「夢中でしたね」
 僕は頷いた。こんな風に本を読むのは初めてだった。
 彼女はちょっと嬉しそうに目を細めると、本についている栞を挟み本を閉じると、上着に手を伸ばしながら言う。
「そろそろ、出ますか? 時間もあれですし」
 壁掛けの時計を見ると、九時になる少し前だった。
 僕は頷いた。


「はぁー、読み耽っちゃいましたねー」
 基本的に静かにしようという雰囲気の建物から出た解放感からか、背中の羽根を伸ばしたように彼女は言う。
 僕も背中が縮こまっているような妙な感覚を覚えていた。彼女の真似をして伸びてみようかとも思ったけれど、体を伸ばすという行動に対する抵抗が体自体にあったので、断念した。
「今日はありがとうございました」
 僕の方が言うべき言葉を先に言い、彼女は頭を下げる。ふわりと髪が踊り、頭の動作に付随する。
「いえ、こちらこそ。ありがとうございました」
「? こちらが付き合ってもらったんじゃないですか」
「いや、実は本屋なんて普段行きませんし、色々と、慣れないことが多かったので助かりました」
「なるほど、所謂ウィン=ウィンでしょうかっ。よかったですー」
 彼女は俯く僕に半歩近付く。そして、手を差し出した。
「それではそろそろお暇します。……お元気で」
 僕もそろそろと手を出して、その手に重ねる。神聖な生き物に触って汚してしまうような、逆に浄化されるような、静電気のような衝撃が体の芯を下から上に駆け上がる。頭がくらくらした。
「あの、タイミングを逃してしまって、今更なのですが、お名前を聞いてもよろしいですか?」
「はいっ」
 彼女の予想外の方向からの言葉に、声が変な出方をする。多分、裏返った。
「えと……僕の名前は、スギカツラです。どっちも植物の、杉、桂で、杉桂」
 それは、先程家探しした際に見つけた名前だった。
「私は」
 彼女が名前を言う前に、携帯電話が鳴った。
「あ、すみません」
 握ったままだった手を離し、彼女は携帯電話のボタンを押し、音を止める。
 体温の残滓が頭の芯を痺れさせて、僕はぎこちない動きでしか手を下げられない。特別な体温は、残滓の方がより大きな痺れをもたらすものらしい。
「メールでした。親……だったらどうしよう。ちょっとすみません、見てみます」
 携帯電話を覗いた彼女が、目を見張る。嫌な予感で、体のどこかを汗が流れた。
 そして、彼女はその言葉を冷たい空気に晒す。

「貴方は、誰ですか?」

「えっ」
 次に彼女の手によって視界に入った文字に足をだるま落としされたような感覚を覚える。
『受信元:メル友さん
 件名:
 本文:こんばんは。昨日の写メ、とても綺麗です。風流ですね。僕は何をとってもぼけてしまって、何かいい写メを送り返せないのが残念です(笑)』
「すいません!」
 こんなに大きな声を出せるのかと自分で驚く程の声で叫んで、僕は駆け出した。すぐに転び、立ちあがり転び、今度こそ立ちあがり、また駆ける。
 誰だ? 向こうが別物なのか? それとも、僕は何者だ? 僕が何かを思い込んでいる? 何が起こったんだ?
 闇雲に駆けて迷子になった僕は、目に入った汗を手でぬぐい、ばくばくと煩い心臓を抑えて、考える。
 次にすべきこと……。
 まず、まずマンションに……。
 とはいってもここからは道がわからない。まず漫画喫茶まで戻ろう。大きな看板なら、ここから見えた。
 ふらふらと、道を行く。まだ風に揺られることもあった頃の、あの部屋の紫色のカーテンを思い出して、余計に息が乱れる。笑いが込み上げたようだ。
 それから、漫画喫茶の前から、マンションに。
 エレベーターを上がる。重力が強く感じて、座り込みたくなった。
 この体を引き摺って、部屋に入り。床に転がった。暗い天井を見上げて、浅はかな自分を恥じる。
 そもそも僕は間違っていたのだ。頭では誰かとの入れ替わりの可能性が高いことを考えながらも、つい、彼女と話しがしたくなってしまったのだから。
 しかし、あのメールは誰が送ったものなのだろう。僕と入れ替わってしまったこの体の持ち主が送ったにしては、妙だ。僕の文体なんかを真似て、なりきって、どうすると言うのだろう。
 そこで、ぼっと頬、いや体全体が熱くなる。
 僕と彼女しかしらなかったやりとりを他人に見られた可能性に気づいたのだ。
「…………」
 何が、僕の身には何が起こっているんだろう。これまでに何が起こって、これから何が起こるんだろう。
 ロクに本を読んだことすらなかった僕には、何も考えつかなかった。ただ、あのメールを送ってきたのは間違いなく僕だろう、ということは、直感していた。
 深呼吸に挑戦して、激しく噎せる。
 もう一人僕が居ると仮定すると、これはどういうことなんだろう。青い水底を這いずるように、床の上をぐねぐねと蠢く。もどかしさが体に伝播する。
 僕が何らかの手段でこの体に移動したのは確かだ。昔見たSF映画ではこういった特殊な移動は、主に時間軸と時空軸で行われていた。SF映画のような事態になっているとして、他に移動はなかっただろうか。
「…………………………」
 認めたくない。
 ひとつ浮かんだ可能性を、僕は認めたくなかった。
 掌にもう残滓すらない体温を浮かべる。指の関節を動かしても、感触は記憶にしか浮かばない。
 それでも、
 この状況を考える上では、この可能性を、認めなければいけなかった。
「……平行世界」
 僕は平行世界の他人と心を入れ替わってしまった、という可能性を。
 いつもメールのやりとりをしていた彼女と、会っていた彼女は違う彼女だという可能性を。
 僕は意識して息を吐き切ると、考えを切り替える。平行世界の他人と入れ替わってしまったと確定した今なら、戻る方法がわからないなどと甘えてはいられない。入れ替わった相手のこともない訳ではないけれど、何よりも僕自身が望むから。
 僕は僕とメールのやりとりをしていた彼女と、また話しがしたい。
 僕は最初にこの部屋に立っていたとき手に持っていた携帯電話を開く。やはり、動きそうもない。ここに来たばかりの時にも試した充電器をもう一度試す。やはり規格が合わないらしく、どうにも噛みあわなかった。
 そのとき、最初机の上に置いてあった方の携帯電話が鳴った。頭は白い風に巻かれていたけれど、一応、取ることが出来る。
『……もしもし』
 元に戻る気配はなく、彼女の声がした。
「もし、もし……」
『貴方が、誰かはわかりませんが、あの、今日付き合って貰ったのは事実なので、最後があんな風で、残念、でした。えと、ありがとう、ございました』
 彼女は固い声で、とつとつと語った。僕は、息を吸ったきり吐き出す言葉が浮かばずに、窒息しそうになり、息を吐いてもう一度吸って、やっと言葉を出す。
「い、いえ、こちらこそ。ありがとう、ございました。騙すようなことになってしまって、すみません。楽しかったです」
『はい。……それでは』
「それだは」
 彼女は最後に噛んだ僕に笑いをこぼすこともなく、困惑の空気を電波越しにこちらまで届けたまま、通話を切った。
 僕はこんなにも律儀で優しい彼女を、深く傷つけてしまったのかもしれない。苦悩に頭を掻き、すぐに自制する。他人の体を傷つけて返す訳にはいかない。
 悩むのは、後にしよう。あの部屋のあの僕には、時間ばかりが溢れ返っているのだ。
 着信を取ることで移動したのなら、リダイアル機能を使って元の番号に掛ければ、ちゃんと元の体に移動出来る、はずだ。そこまでならここに来てすぐに考えた。
 あとは手の中にあった方の携帯電話の電池を復活させる方法。
 と、その前に僕は机の上に置いてあった方の携帯電話を取り、メールと着信履歴を消す。
 それから一瞬の躊躇の後、新規メールに謝罪を打ち込む。
『すみません。入れ替わっていた(?)間に、本を一冊買ったので、財布の中身が少し減っています。携帯電話も少し使いました。それと、舌を火傷してしまいました。しばらく痛むかもしれません。』
 これで安心して戻れるはずだ。
 僕は考える。僕は部屋から出なかったため充電出来なかったことがなく、殆どそれに対応する手段を知らない。
 どうしたらいいかわからないので、思わず僕は携帯電話の蓋を外し、電池パックを取り出す。これが、携帯電話の心臓、だろうか。自分が今居る体の心臓に手を当てる。明らかに動いている。携帯電話の心臓も微細な動きくらいならしているのだろうか。
 急に心臓を取り出す、という行為が怖くなり、すぐに電池パックと蓋を元に戻した。
 ついでのように、電源ボタンを押す。
「…………っ」
 ついた。
 暗い部屋でその携帯電話の画面は煌々と輝く。電源がつき終わると、僕は急いで自分の推測に従い、発信履歴を探す。
 あった。
 僕は何の覚悟も気負いも心に追いつかないうちに、その番号に発信した。


 今日も天井を見上げる。
 あれは夢だったのかもしれないと考えることも、たまにある。それだけ現実感がないことなのだ。僕の存在自体、他人からすれば現実感がないのかもしれないけれど。
 あれから部屋に戻った僕を待っていたのは、僕が作ったのと同じような、未送信メール。
『状況がわからなかったし何より退屈なのでメールを見た。申し訳ない。混乱させるかもしれないけど、それだけは謝りたかった。一件新しく受信したが、返事は出していない。』
 赤面したくなったが出来なかったのですぐに諦めた。そして、間違えて彼女に送信してしまうことを恐れて、つい、その未送信メールを消してしまった。データは完全に消えてしまったので、証拠となりえるものを消したことを後悔しても遅かった。
 ここにあるのは、いつもの天井と、床と、紫色のカーテン。人間以外の生き物の気配のしない部屋で、メールの受信を合図に明るさを取り戻す僕。ここにある全ては変わらないままだった。
 彼女の元から訪れるメールが僕にとって得であることも、変わらなかった。
 あれから元に戻った僕は、何かがプラスに変われたんだろうか。わからない。誰も得をせず、無駄にあの彼女を傷つけたのかもしれなかった。
 ただ、ひとつ。
 彼女に嘘以外で語れることが、少しだけ増えた。

『そういえば、この間珍しく本を読みました。帯に書いてあった言葉が魅力的で、ずっと気になってた本なんですけれど、やっと(笑)。タイトルは……』

 2011/07/04 ちょっとだけ改稿しました。改稿前→こちら
 実は最初図書館行かせるつもりだったのですが途中で舵を切ったので結構違和感がある箇所が残ってしまっていました。こんなの読まれちゃった//

 平行世界の彼女の見た目はらくがきで決めました(新しい眼鏡が気に入ったのでそれかけさせたから眼鏡っ娘になった)。あと、本来じゃ彼女がネカマだったり性格等結構偽ってたりっていう可能性もあるけど細かいこと気にしたら負けだなって前の返信二次創作書いたときも思ってた。
 最後は明るくまとめていますが、かなりひどい話です。けーくん(主人公に勝手につけてるあだ名)ごめんね。あとけーくん似ない。

 あ、『今更木が変わっても』は故意です。そういった形の操作に慣れてないんですね、彼。機種とかも違うだろうし。

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