かみさまのえんむすび

 公民館に併設された児童センターを初めて訪れた日、俺は一人の少女と出会った。
 少女の存在は俺にとってかけがえのないものとなり、その日からの生活は少しだけ幸福な当たり前が増えたものとなった。

 そして数年後、公民館に併設された図書館を訪れた日、俺たちは一つの噂と出会った。それは数年の潜伏期間を経て、俺たちに転機をもたらすことになる。



「ムギちゃーん! 一緒に帰ろー!」
 振り向けば、あの日出会った同い年の少女が、とろけるような朱の夕日を背負って駆けてくる。
 ムギというのは俺のことだ。本当は紡と書いてツムグと読むのだが、彼女はそう呼ぶ。
 初対面のとき『まだ習ってないけどわたし読み方分かるよ。ツムギくんだね!』と言い放った彼女が、訂正した俺を真っ赤になってポカポカやりながら無理矢理つけたあだ名だ。
「センリー、あんまり走るな。転ぶぞー!」
 立ち止まり俺が言うと、
「転ばねーよ!」
 と元気な声が帰ってくる。
 センリというのが彼女のことだ。本当は千里と書いてチリと読むのだが、俺はそう呼ぶ。確かこういうのを意趣返しって言うんだったか。
 センリは息を切らして俺の前に立ち、膝に手をつく。俺は少し背が低く体力もない彼女を見下ろして、明日からはセンリの教室を覗いてから帰ろうと決心する。
「大丈夫か?」
「ん…………んんぅ、大丈夫、じゃないかも。アイス食べたくて死んじゃう」
 心配して損した。と、そう思わせたいのが見え見えの台詞に俺はため息をつく。
 センリは相手に気を遣わせることをひどく嫌う。自分を悪く思わせてまで忌避するのだ。ビョーキじゃねえかと思っている。
「じゃあちょっと喫茶店でも寄って帰ろうぜ」
 センリの呼吸が少し落ち着いてきた頃に言うと、彼女は目を丸くする。
「えっ、大丈夫なん? 給料日前じゃねーの?」
「まあ、前回バイト先で大入りあったからなぁ」
 俺が自慢気に話すと、センリは困ったような嬉しいような笑顔を浮かべた。
「うん、行こうっ!」

 センリは最近よく俺と下校するようになった。
 前は、俺はバイト先に直行することが多いのもあって常に一人で帰っていたし、センリは大好きな女友達と二人で帰っていた。
 センリの女友達に、彼氏ができるまでは。
 他にも友達はいるみたいだが、それでもセンリは一人でいることが増えた。まだ何も相談されてないから邪推するのは避けたいけど、多分彼女たちの関係は『友達』ではなかったのだ。



 店員が持ってきてくれた紅茶に二人揃って角砂糖を四つ溶かして口にする。温かさと甘さと香りが口の中を満たした。
 やっぱりホットにしてよかった。“アイス食べないと死んじゃう”猛暑とはいえ、相変わらずこの店は冷房が効いている。
「はぁー、おいしー」
 センリは紅茶を一口飲んで幸せそうな顔をしたままミルクを注ぐ。紅茶を飲むときの、いつもの流れだ。俺は何も加えないで二口目をゆっくり含む。
「そういえばムギちゃん今日お夕飯当番大丈夫なの?」
 甘い色合いになった紅茶で口を湿らせて、センリは首を傾げてきた。俺は携帯に入った連絡を思い起こしながら説明する。
「ああ、今日はにーさん泊まり込みだってさ」
「はー、にーさん、相変わらずお仕事忙しそうだねー」
 センリは呑気な口調で言う。まあ、いつものことなのだ。
 にーさんは人が悪い。俺のバイト代をもっと家計に吸収してくれればもう少し仕事も減らせるはずなのだが、絶対に月四万までしか入れさせてくれない。
「お前こそ家は?」
 帰る用事がある日だろうか。尋ねながら俺は限定メニューの札に目を遣る。柑橘系のマカロンか……高けぇ。でも甘酸っぱいのかぁ。ちょっと美味そう。
 センリも気になったのか俺が見ていたメニュー札に触れながらぼんやり返す。
「あぁ、うちも今日は誰も帰ってこないよ」
「じゃあまたうち来る?」
 流れで聞くと、センリは少し困った顔をして、笑って、困った顔をして、結局困った笑顔に落ち着いて紅茶を煽る。
「……う、うー……と、やること……があってさ……」
 そこで言葉は途切れた。でもセンリがこういうとき続きを考えていることはわかりきっているので、俺は何も言わない。
「あ、すみません。この限定マカロンください。二つ」
 正確にはセンリには何も言わない。
 注文を受けた店員が厨房に入って行ってから、センリはぽつりと聞く。
「もしかして一つ私の?」
「うん」
 俺が即答すると、センリは切なそうで嬉しそうな顔をして、俯く。
「ムギちゃんにはかなわないよなー……」
「ざまあ」
 大切なやつに何かしてやりたい気持ちを我慢するのは、あまり得意じゃない。どうせいつも家で我慢させられているのだ。幼なじみにくらい甘えたい。
「うん、じゃあかなわないついでにお願いします。お部屋の片づけ手伝ってください」
 ぺこりと小さく頭を下げるセンリに、俺も小さく笑いかける。
「まかせとけ」

「うめぇ。けどたけぇよな。女子はなんであそこまでマカロン好きなんだ?」だの「こんなに可愛くてふわふわさくさくで甘い食物を嫌いになれるわけがないだろ」だのとマカロン談義をしていた時間はまあ長かったので大体割愛。



 未だに慣れないセンリの自宅は、落ち着いた雰囲気のマンションだ。
「ただいまー。そしていらっしゃーい」
「俺は新婚さんか」
 妙な発音で迎えてくれるセンリに続いて中に入る。相変わらず雑然とした家だ。綺麗なのは、滅多に来ないくせに住んでることになっている親戚の、アリバイ工作のような部屋だけだろう。
「かーさんはショートステイかなんか?」
 鞄をソファの横に下ろして腰掛けながら俺が問うと、靴下を脱いで洗面所のかごに投げ入れながらセンリは答える。
「うん。二週間くらいね。たまには私も普通の女子高生さー」
 普通か? とも思ったが、家事全般こなすやつも別に少なくはないらしいし、何より言っても面白くなさそうだったので黙っておく。
 俺は携帯を出して時間とメールその他お知らせを確認したあと、元々緩くかけてあったネクタイを外した。気づけばセンリがいないが、まあいいか。トイレかなんかだろ。
 そう思っていたらセンリはひょこっと出てきた。手には女物のゆるい(というかゆるキャラがプリントされている)寝間着と男物のスウェットがある。
「とりあえず着替えない? 制服だるいし」
「おー」
 提案に乗って俺がスウェットを受け取ると、センリは出てきた部屋……つまり自室に引っ込む。
 俺は着替えながら「あ、そっかこれ泊まりの流れだ」と気づいたので、制服を畳んでから一応にーさんに連絡を入れておいた。
 あ、返信早い。
『避妊しろよ(o*゚▽゚*)o』
 やかましい。

 ともあれ動きやすくもなったことだし、俺たちはセンリの部屋を片づけることにした。
「引くなよ……ぜっっったい引くなよ」
 センリのしつこい念押しに適当に頷きながら腕を捲る。
「では、オープンザプライス!」
 え、値段つけるの。
 小さなつっこみは勢いよく開かれたドアの向こうに消えた。
 基本の家具や本棚は綺麗なまま動いていないので、二人でかからなくてもさほど大変ではなさそうだ。
 ただ、思い出の品と思しき陶器が割れていて、“二人”の写真が入った写真立てが割れた上に折れていて、くしゃくしゃにされたり破られたりした写真が散乱しているだけで。
 あと勢い余ったのか電気スタンドも壊れていた。あぶねぇ。
「……とりあえずじゃあ、電気スタンドからな」
 そう、なるべく冷静に声を掛ける。右手で触れたセンリの肩は小さく震えていた。
「すまぬのぅー」
 気の抜けたような返事も陽気の演技も、若干虚しいのであった。
 だからもう冗談の隙間も与えないほど急ピッチで作業を進める。

 そしてなんとか全部を袋に詰めて収集日を無視して捨てて(一応ゴミ捨て場は金網に覆われているから、事情があれば早めに出していいらしい)、なんとか一息つく。
「終わったー」
 思ったよりは重労働だった。俺はだるい脚に体重を掛けるのをやめて、尻からベッドに着地する。
 センリの部屋は、かなりきれいになってしまった。
 本人はというとお茶を淹れてきたあとはずっとぼんやり床に座っていて、何も言わない。あんまりアレコレ話しかけるのも寒い気がするし……どうしたもんか。
 しばらくの思案のあと、とりあえず俺はそのぼんやり顔の前で拍手を打つ。
「っ?」
 乾いた音に目を丸くするセンリの前で、俺は宣言を繰り返す。
「終わったぞー」
 ばんざーい、と、テレビかなんかで見たアットホームパパさんの物真似で手を挙げてみせる。
 センリはややあって、こぶしをちょっとだけ上に上げる。
「ううー、終わったぁー……」
 それから、
「終わったあぁあー!」
 俺の胸に思いっきり飛び込んできた。
 行動自体は予測していたが勢いが想定外だったため息が止まる。いやしかしここは我慢、我慢だ。
「終わっちゃったっ。終わっちゃったよぉ……っ」
 ぼろぼろと涙を流し、ひっくひっくとしゃくりあげながら、センリは俺の胸に顔を押し付けて泣き喚く。何度も何度も、終わっちゃったと、うわ言のように繰り返す。
「そうだな……」
 俺はというと同意することしかできずに、ただただ背中をさすってやる。
 泣きすぎたセンリの声はだんだん言葉になれない鳴き声になり、次にただの音になっていき――――
 そしてそれでも、最後には人の言葉を取り戻す。
 究極に悲しい気持ちというのがあるとしても、人はそれを一定に保つことはできない。
 それに心というものを感情を詰め込んだ袋に例えるなら、あれは部屋が分かれすぎている。同じことへの同じ感情でも、細分化されて別々の部屋に仕舞われているのだ。内圧の解放は一度じゃ済まないし、一度の解放はそれほど長くも大きくもできない。
「……あのね、ムギちゃん、愚痴ってもいい?」
 顔を見せないままセンリは尋ねてきた。
「おう。どしどし来い。いくらでも」
 俺は思ったより優しげな声が出て自分でちょっとビビりつつ言いたいことを言い切った。うさんくさくないかどうかだけ心配していると、センリは重ねて尋ねてくる。
「悪口になっちゃうけどいい? 陰口、だけど、いい? 嫌いじゃない?」
「全然」
 俺は短く返すけど、内心はもっと長文で「普段はそんなに好きじゃないけどそんなになってまで我慢することではないだろ絶対。バカだこいつ知ってたけどバカだ」と思う。
「あのね……」
 そんな子供のような言葉から始めてセンリが小さな声でこぼし続けた“愚痴”の内容は、かなりひどいものだった。

 センリはある日つきあっていた恋人――『女友達』のことだ――に別れを告げられた。「好きな人が出来たからもうやめよう」と。センリは勿論心変わりを悲しんだし、痛みも覚えた。けどそれだけならなんとか受け止められる気がしたんだそうだ。
 思い出があるから平気だと。
 けれど元恋人はその思い出さえ否定し始めた。一過性のアレでどうかしてたのよと、黒歴史として触れ回る程度に。
 センリはいくらなんでも傷ついたし、やめさせようと放課後、元恋人を探したという。
 しかしそんな彼女が見たのは、元恋人が彼氏に『キチガイではない』『はしかの治った健康体』だということを確認されている場面だった。髪を梳かれて、優しく肩を抱かれて。校内だというのに無警戒に。甘ったるい空気に包まって。
 お節介なことに、彼氏は恋人の女友達のことも『成長の遅い健常者』だと励ましていたそうだ。最悪だ。
「好きだ、って、言ってくれたのに……言って……手をつないで……恥ずかしくてキスも、まともにできなくて……でも、全部、ほんとにあったことなのに。そのときだけの気持ちでよかった。そのときだけでよかったのに。全部嘘だったって、嘘だったって、嘘だったってぇっ……」
 センリはまたぶり返しのように泣きじゃくりはじめる。
「嘘じゃないよぉ……っ。少なくともっ、わた……私は……っ」
 今度は子供のようにわあわあ泣いている彼女の頭を撫でて、俺は呟く。
「お前がそんなとこで嘘つけるわけないだろ」

 もう一度落ち着きを取り戻したセンリの腫れた瞼に囲われた目は、何故か冷静に澄んできていた。
 嫌な予感を押しとどめるための陽気な話題を探す俺を尻目に、センリはあっさりと、懐かしい噂を口にした。


「怨結びの呪いって、覚えてる?」



 聞けばセンリは、本当かどうかもわからない、昔聞いただけの呪いに縋って行動する気らしい。
「でも、呪い自体の信憑性は、そこそこあるじゃん? 方法は………………あれだけどさ……」
 そう語るセンリは切羽詰まった真っ赤な顔で俺の胸倉を掴んで離さない。
「二人で新聞漁ったの、懐かしいよね……」
 センリは、今にも泣きそうな自分の顔に気づいているのだろうか。
「私どうしても、あの男が許せないの。土にも煙にも食い物にもさせたくないくらい許せない。その、それで、そのとき処女だと嫌だから……さ、む、ムギちゃんさえ、その、童貞に未練なかったらその……っ」
「どどどど童貞ちゃうわ」
 反射的に言い返してしまった。しまった、これでは説得どころではなくなってしまう。
「え、童貞ちゃうの……?」
 高二で童貞ちゃうのは、そこまで驚くことではないような気がする。それに俺は、
「ごめん嘘です童貞です」
 まだ手つかずなのだ。自分で言っててなんか凹んだ。
「そ、そっか……それで、嫌かな……?」
 不安げな瞳が至近距離で揺れる。俺は嗅ぎ慣れた体臭を強く意識してしまい、生唾を飲んだ。
 したくないわけがない。八年前初めて会ったときから好きな人としたくないわけがない。いくら俺が布団並べて何もしないでいられた回数が指の本数を超えてたって淡白で我慢強いだけで欲がない性質なわけじゃない。
「嫌、ではない。ではないが……」
 だけどでもここで説得しないと幼なじみが廃る。一方的に好きだったわけじゃない。ずっとお互いそれなりに身近で、それぞれの尺度で大切な存在として過ごしてきたのだ。
「じゃあ、お願い……」
 耳元をなぞる不慣れな誘惑と、体に触れる柔らかい感触に襲われて、童貞の俺は負けそうになる。
「待て、もう一度よく……っ」
「だめ。今のうちに……」
 一言一言が呪縛になったように俺の体は動かない。非力なはずのセンリに押し倒されて、上は半分以上ずり上げられてしまっている。
 だけど俺はふとそれを思い出す。
「センリ、ゴムは?」
 その一言は効果てきめんだった。センリはぴたりと動きを止め、気まずそうに顔を上げて逸らして体ごとしずしず離れていく。
「……………………ごめん。忘れてた」
 養育のための環境が整わないまま生まれてそれなりに不自由な家庭で育ってきた俺たちがそれを忘れちゃだめだろう。
 だけどセンリも必死だったのだ。俺は一度のデコピンで許すことにする。
「バカ」
 そうした事態の収拾後、ピンチを逃れた俺と完遂できなかったセンリは若干気まずくなりながらも、その夜を童貞処女のままで越える。

 ひとつの山を乗り越えたせいで、俺はぐっすり眠りにつき、携帯の目覚まし機能を弄られ見事に寝坊してしまう。
 他の報復の提案は考え付いてからにしようとか、なんなら説得しようとか、そんなことを考えながら。



 目が覚めると誰もいない。
 ぞくぞくと、何かが背中を這い上がる感覚がする。
 携帯をチェックする。目覚ましが鳴った形跡もないし、連絡も入っていない。書置きもない。
 だけどテーブルの上には赤いマジックペンがあった。
 脳裏にはあの日耳にした過激な噂が浮かぶ。
 二人で漁った新聞記事の、異様な数の行方不明者を、そこに混じった両親の記事を思い出す。
 口の端から漏れる「いやだいやだ」の声を止める余裕もないのに何故かしっかり着替えだけは済ませて、靴下が裏返しのまま靴を初めて履き潰して俺は町を駆ける。
 どこへ向かえばいい……?
 焦って目が眩む俺の前に、一羽の小鳥が飛び込んでくる。
 慌てて止まろうとした俺が転ぶと、何故かその小鳥は足下に着地した。
 と同時に足から何か抜ける感触がする。
 顔を上げると目の前には、俺の靴をくわえた赤い首輪の黒猫が居た。
 黒猫は俺を見つめて一声鳴き、一本ない足で器用に駆け出す。
 俺はわけもわからず黒猫について走って行った。
 靴なんかどうでもいいはずなのだが、予感が騒いで背中を押す。
 小鳥までついてきていよいよ変な感じだ。というか小鳥は一羽じゃなかった。なんか二羽くっついてる。比翼?
 肺が痛くなるほど精一杯走って、俺は小さな公園に飛び込む。直前に黒猫がまた振り返って鳴いたから、ここに案内したかったのだろう。
 いつのまにか黒猫と小鳥は消え失せ、俺の靴だけが落ちている。
 それよりもセンリはどこだ。
 案内役を見失って途方に暮れかけた俺の耳に、言い争うような声が飛び込んできた。公衆トイレか! そりゃそうだここ狭いもんな! そこくらいしかねえわな!
 漠然と、怖気づいて泣くセンリをクソ野郎が追いつめる図が浮かんで、それだけで殺意が耳鳴りを呼ぶ。
 俺はもつれて攣った脚を無理矢理引き摺って、声がする男子トイレに突入する。
「センリ!」
 視界に入ったのは縛りあげられてぴーぴー泣くド腐れマザーファッカーと半脱ぎで上に乗ろうとする、腕に赤い縄の模様を描いた少女だった。
 俺は、
「あー……えっとっ」
 呆然としかける。
 でも止めなきゃとにかくとめなきゃどうしよう。
 そして、
「ぐぇっ」
 俺は間違いか正解か、幼なじみの少女を殴り飛ばした。



 公民館に併設された図書館で聞いた噂はこうだ。
1.怨結びの呪いを使えば、憎い相手を消すことができる。
2.怨結びの呪いを使った者は、その後一生誰とも結ばれない。
3.怨結びが成立するかどうかは、想いの強さと運による。
4.怨結びを成立させる方法は、腕に赤い縄を描いた状態で憎い相手と性交を行うこと。
 あのときの俺たちは成立方法の部分で顔を真っ赤にして逃げ惑う子供だった。今も、結局子供だという部分に変わりはない。
 後から知ったことなのだが、呪いの成立についての部分は、伝聞で伝えられるうちねじ曲がったもので……

 本当の方法は、もう既に使えなくなっていたのだ。



 俺はセンリを殴り飛ばしたあと慌てて駆け寄り、気絶してしまった彼女を安静にさせると、彼女の元恋人の彼氏を解放した。
 ただし、彼氏については解放する前にバシャバシャ撮らせてもらった。撮った際に気づいたが、彼のあれは立つどころか縮みあがっていた。
「男子トイレでイイ格好してるこの画像をバラ撒かれたくなかったら黙っていてくれ。頼む」
 ウェブクラウドに保存する様を目の前で見せつけたあと紳士的にお願いしたので、多分大丈夫だろう。多分。
 卑劣なことをしてしまったしリスクも負ったが、アホなのでこれしか思いつかない。
 俺はなんとかセンリに服を着せ、おぶって自分の家を目指す。センリの家よりは近いからだ。
 それに、にーさんにも話さなきゃいけない。また苦労を掛けてしまうかもしれないのだ。ちゃんと謝らないと。ただでさえにーさんは俺とかーさんのために……。
 家族のことを考えたところで、気が抜けてしまったのか足元の感覚が失われる。
 あ、まずいセンリ落とすやばい。
 そう思ったときには視界は真っ白に塗りつぶされていた。



 こんな綺麗な舞いは初めて見る。
 昔の人の格好をした黒髪の女が、赤い縄の装飾を揺らして厳かに舞っている。
 チチチと鳴く声に気づいて目をやれば、比翼が俺の膝に止まってこちらを見ていた。
「いいもんだろ。元は大昔奉納してもらったやつらしい」
 隣に腰掛ける隻腕の男が言う。男は短い黒髪で、神官のような格好をして首には赤い縄をかけていた。
 尚も美しく舞う女を見ながら、俺は男の言葉に頷く。
 すると舞っている女の声が、頭の中で直接響く。何故その女の声だとわかるのかはわからない。
「そなたたちに、私は苦労をかけた」
 チチッと、比翼が仲良く鳴く。
『たち』……? 俺たち家族のことだろうか。
 ――俺はそんなに苦労していません。苦労したのは逝っちまったじいさんばあさんと、俺やかーさんのために今も頑張ってるにーさんです。
「……そうか。そなたのところは今、そなたの叔父がすべてを負うておるのか」
 思っただけなのに返事がくる。俺何故かは驚く気にはなれなかった。
 ――にーさんは、俺のことも、施設で暮らすかーさんのことも、一人で支えているんです。俺が普通の幸せを享受して生きているのは、にーさんのお陰なんです。
 俺が強く思うと、女は嬉しそうな切なそうな、長い年月を思わせる微笑を浮かべる。
「そなたは、幸せなのだな」
 微妙に噛み合わないその返事は、泣きそうな声で響いた。
 ――はい。だけど俺は、にーさんにもっと、自分の幸せのために生きてほしい。
 俺の心の声はコントロールを失ったように、直球の願望を吐き出す。
 どうしてこの人にそんなことを話しているのだろう?
 疑問に思う俺をよそに、女は舞うのをやめ、口を開いた。

「その願い、確かに聞き届けたぞ」

 すると突然そこにいる自分が浮き上がり、女たちのいる場所から急激に遠ざかる感覚がして、視界にあった物も人も鳥も吸い込まれるように消え失せていく。
 すべてが消える直前、男は言った。
「あいつに礼を言っておいてくれ」
 あいつって、誰だ……?



 目が覚めると自分の家で布団に寝かされていた。
「センリ!」
 慌てて起き上がる。しかしよく見たらセンリは俺の布団で一緒に寝かされていた。
 どういうことだ?
 帰り道に倒れて以降の記憶がない。誰かがここへ俺たちを運んできたのだろうか。
 頭が痛い。よくわからない。ただ、布団をめくって確認したところセンリに怪我はなさそうだ。……俺が殴り飛ばしたところ以外。
 俺は何とはなしにセンリの髪をさらさら撫でる。それはあたたかく、やわらかい。差し込む夕日の鋭さを忘れさせる感覚だ。
 そうしているうちにセンリはぱちと目を覚ます。
「……ごめん」
 センリは開口一番そう言った。
「俺こそ。よく考えたら殴り飛ばす必要なかったし……お前を止められなかった」
 俺が殊勝に言い返すと、センリは表情を変えずにぼろぼろと涙を零す。
 そして謝りながらどんどん顔をぐしゃぐしゃにしていった。
「っ……ごめん。ムギちゃん、巻き込んじゃった……ムギちゃんまで、きょ、共犯……みたいに……」
 ごめんなさい。センリは繰り返す。
 俺はキリなく流れる涙を指で拭いながら言う。
「俺はなんとか巻き込まれることができてよかったって思ってる」
 それでもまだ謝り続けるセンリのことを、俺は抱き起こして、抱きしめる。
「センリは違うだろうけど、俺はセンリが好きなんだ。楽しいことをお裾分けしたいだけじゃなくて、地獄に堕ちるなら道連れにされたいっていう好きなんだ。巻き込んでくれよ」
 本当はもっと、失恋の傷も癒えて元気になったセンリに告白するつもりだったんだけど、そうもいかないのが現実みたいだ。言いまわしも変に気障で死にたくなる。
 だけどお陰でセンリはやっと謝罪を諦めて、俺の背に腕を回してくる。
 そして今度はくすぐったくなる言葉を、俺の耳元で何度も繰り返すのだ。

「ありがとう。嬉しい。ありがとう……」



 後日俺たちは、にーさんも一緒になって、山奥にある赤縄神社を訪れていた。
 あの日あの後事情を聞いたにーさんは、なんというか……あれが阿修羅か、といった風だった。
 曰く「呪いを使うとは何事だ!」。曰く「そんな理由でセックスしようとすんな!」。曰く「お前も寝こけてんじゃねえ!」。曰く「そのクソビッチとマザーファッカーをうちに連れてきなさい!」等々。
 そして、うちに迷惑が掛かるかもしれないことを謝ろうとした俺たちは「そんなことより自分を大事にしろ!」と怒鳴られたしついにビンタされた。まだ痛いような気がするからすごい。
 あの日からもう、三ヶ月の月日が流れていた。
 センリはまだ立ち直りきってはいないが、少しずつ元気を取り戻している。元恋人の所行がわかりやすくひどかったこともあり、クラスメイトたちも何かと気を回してくれるんだそうだ。
 俺は相変わらず、幼なじみとは幼なじみのまま、普通に過ごしている。
 にーさんは何故か最近やたらと縁に恵まれていて、仕事も(お金周りも)好調で趣味もでき、なんといい雰囲気の相手までいるのだという。余裕ができた最近にーさんは、少しずつ自分のために時間を使うようになっていた。
 今日はそんなにーさんの縁を面白がった趣味友達から教わって、この神社を訪れている。
 一度は廃墟になったものをうら若い女神主が出資し復興させ管理している、縁結びの神社らしい。

「ごめん、僕財布取ってくるから紡と千里はここにいて」
 にーさんはそう言うと、立て替えるというのも聞かずに、車を目指して長い石段を下りていく。
 なんでも「ねーちゃんにもなんかお土産買ってく」んだそうだ。
 にーさんのねーちゃん、つまりは俺のかーさんは、俺から見てもヒトの抜け殻のような存在だ。にーさんから見てもそうらしい。だけど、
「でも、小さい頃の僕が悪さしたときげんこつ食らわせたのはこの手なんだよなぁ」
 と、かーさんの手を取って、いつかのにーさんは言っていた。そういう人なのだ。
 ふいにぼんやり思い返す俺の手が取られれる。先ほどまで美しく染まった紅葉に見とれていたセンリだ。
「先にお参りしとく?」
「ああ、そうだな。お手水どこだ?」
「あっちにあるじゃん」
 そんなやりとりをしていると、社の方から神主と思しき女が出てきた。
「あらこんにちは。いらっしゃい」
 俺たちは妙に緊張しながら挨拶を返す。センリは続けて話しかけた。
「神主さんですか?」
 するとその人はにこにこしたまま頷く。ふんわりとした髪が揺れた。綺麗な人だ。
「可愛いですね。高校生?」
「は、はい」
 返事をするセンリは、神主の美貌に俺以上に浮き足立っている。センリが綺麗な人や物を大好きなのは知っているが、なんか悔しい。
「うふふ、もし悩むことがあったらまた来てね。うちはカウンセラーもいるから」
 微笑んだまま神主は言うが、俺は耳を疑う。
「え、カウンセラーですか?」
 すかさず聞き返すと、神主は楽しそうに補足する。
「そう。スクールカウンセラーもやってるから、居ないことも多いんだけどね」
 感心したらいいのか呆れたらいいのか迷って視線を交わす俺とセンリに、神主は更に説明してくれる。
 この神社は神社とは呼ばれているものの、成り立ちも働きも特殊らしい。ここにおつとめしているのはここの神と関わった者ばかりで、中でもカウンセラーは些細なすれ違いから神に縋ったことを後悔し、人の相談を受けるために資格を取ったのだという。
 説明の途中神主は、はたと気づいたように視線を上げた。
「あ、おっぱいおっきいよ」
 うわ超どうでもいい。
 それから、かつてここの神が『怨結びの呪い』の成就と引き替えに自らの封印を人々に押しつけたこと、今は縁を結ぶ力を取り戻したのだろうと推測できることまで話してくれた。
 神主は話し終えると、ふいに狐につままれたような顔になり、呟く。
「なんでこんなに話しちゃったのかな」
 しかしすぐに疑問を振り払ったのかまたにっこり笑って手を振った。
「じゃあ、やることあるから……」
 俺とセンリも手を振り返して、さてお手水……と思ったはずだったのだが、俺の口から思わぬ言葉が飛び出した。

「ありがとうな、ここまでしてくれて」

 センリも神主も目を丸くしてこちらを見ている。俺も多分同じような顔をしていることだろう。
 っていうか、今の、俺の声だったか?
 混乱していると、神主の目からは涙が溢れ、流れ出していた。
「……っ、びっくりです……。まさか、報われるなんて、思っても、みませんでした……」
 神主は俺とセンリよりは幾分か冷静なようで、涙を流しながらも焦った様子は見られない。
 オロオロするばかりの俺たちを後目に、神主はあっという間に切り替えて、奥に戻っていく。何かが吹っ切れたようにぶんぶん手を振って、楽しげに。
「きっとまた来てね!」
 次に遊びに来たとき、俺たちはこの人から怨結びの詳細を聞くことになるのだが、それは割愛する。

 俺たちは戻ってきたにーさんと一緒にお参りをして、お守りを買って岐路についた。
 俺の口をついて出た言葉については保留にして、次に神社を訪れたときに聞くことになった。何せ不思議なことは初めてではないのだ。
 最後はにーさんの車でセンリを家まで送ってから帰ったのだが、車から下りたセンリは別れ際、大きな爆弾を落としていく。
 暫く俺はにーさんにからかわれすぎてかなりいたたまれない思いをした。これは一生かけて償ってもらうしかなさそうだ。

 センリは車の窓越しに、俺にキスして帰ったのだ。

その後妄想ですー。ぴくしぶ版ではなんかチャプター的な何かそういう文字入れましたがこっちはプレーン。

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