優しい人だと思った。
イクマさんは、奇妙な巡り合わせで知り合った喰種だ。
彼は人間の肉しか食べられない体を持ちながらも、人間に育てられ、人間を殺めるどころか傷つけることすら人並み以下。人間として慎ましやかに暮らしている。
私が喰種に食べられそうになったときに色々と助けてくれた恩人でもある。
そして昼は運送業者として働き、夜はストリートライブをしたり時々ライブに呼ばれて出演したりと、なかなかに忙しい日々を送っている。
今も私がストリートライブを聴きに来て、やっと久しぶりに会えたところだった。一月だというのに、彼は定期的にライブを続けている。
「いやいや、三葉ちゃんの方が忙しいやん」
忙しいですよね、と口にした私に、イクマさんは撤収作業の手を止めて優しく突っ込む。
手の甲をぴしっと振るポーズが様になっているように感じるのは、彼が関西出身だからだろうか。
「……そう、なんですけど」
「そやろ」
大学に通いながらアイドル歌手を続けている私は、イクマさんの指摘通りかなり忙しい。一時は重体だった母もまだ入院中で、面会や着替えの補充もある。
けれど、そういう意味じゃないのだ。
「次の完全オフの日って、いつですか?」
もどかしくなってダメ元で尋ねてみるも、イクマさんが言った日は私が仕事で埋まっている日だった。
がっくりする私に、イクマさんは『期待』を抑えたような態度で鼻の下をこすって続ける。
「その日は三葉ちゃんのライブがあるやろ。休みもチケットも取れた」
はにかむイクマさんに、私はますますがっくり来てしまう。
「言ってくれたら、関係者席のチケットあげたのに……」
思わずうらめしげな声を出してしまったのも、仕方のないことだろう。
期待に応えられなくて申し訳ないけれど、全く喜べない。
私はもっとイクマさんと会って話がしたいし、もっとちゃんと、特別扱いがしたい。
つまりきっと、そういうことだった。
イクマさんも私のことをかなり気にしてくれている。見ていたらわかる。
そこまで察しがついているからこそ、私はこの状況に地団駄を踏みそうになっているのだった。
「そんなん悪いやん。俺は三葉ちゃんのファンとしてライブに行きたいんだから」
イクマさんは困ったように笑って言う。
私は今日こそはともう少しだけ食い下がる。
「……じゃあ、ライブが終わった後、八時以降にはなっちゃうんですけど、空いてますか?」
「えッ……とぉ……」
一歩踏み込んだ私にイクマさんは半歩後ずさって、目を泳がせる。
「…………すみません」
それを見て私は、一歩下がる。
私だって、強引な誘いを受ければ困るのに。その気持ちを知っているのに、踏み込みすぎた。
「今日はもう帰りますね! おやすみなさい!」
余計なことを言う前にと、一方的に挨拶を済ませて走り去る。
後ろでイクマさんが慌てているのはわかったけれど、急いでいる振りをした。
家路の途中、いくらなんでも失礼だったかと思い、スマートフォンのメッセージアプリを立ち上げて、イクマさん宛ての画面を開く。
『さっきはごめんなさい。ライブの件、ありがとうございます。さっきは』
そこまで打ったところでスマートフォンの画面が電話の着信画面に変わる。私は悴む指で受話のためのフリック操作を行った。
「……はい」
声が震えたのは寒さのせいだけではない。着信画面に表示されていたのが、さっき振り切ったイクマさんだったからだ。
「もしもし三葉ちゃん」
しかし声を聞いたらもう、電話に出たときの不安や緊張はどこかへ行ってしまう。
「はい」
白い息とともに、私はもう一度返事を繰り返す。
イクマさんの落ち着いた話し声がスピーカーから流れ出す。
「ライブの日……八時な……俺でよければ、行くよ。食事は無理やけど」
「……はい」
笑いを交えた誘いの返事に、私はなるべく落ち着いて答える。しかし返事には続きがあった。
「ただな……」
「はい?」
まだ何かあっただろうか。歩きながら通話していたはずが立ち止まりそうになる。
自分が吐いた真っ白な息を眺めながらなるべく平静に待っていると、イクマさんは意を決したように続ける。
「俺が勘違いして舞い上がったら、ごめんな!」
私は大きく溜め息をつく。自然と笑っていた。
頬の周りが熱くて、やっと見えた我が家に辿り着くのが惜しい。
「……じゃあ、」
私は当日のことを話しながら、そっと心に決める。
絶対絶対、手くらい繋いでみせるんだから。
掌編。かわいいイク三。ラブコメディ。
この人わたしのこと好きそうだけどなんかめちゃくちゃ距離とって来やがるなあ、ってときが一番ジリジリするよねぇ。