雨が止むまでは

T


 地下の排水の増加は、地上での大雨を示していた。
「有馬さん」
 タケの声で、自分が物思いに耽っていたことに気づく。
 あの日、役目を果たすことのない傘の中で向けられた笑顔を思い出しそうになっていたようだ。
 幸い、部下たちは皆、いつもの寝不足だと思っているようだった。実際に寝不足なので、どこかで隙あらば寝たい。多分、何秒かずつなら寝ても大丈夫だろう。
「行こう」
 そう口にして、俺は隊の皆にも進行の計画を伝える。
 二十四区の捜査は常に手探りだ。そうでなくてはならないから、そうしている。
 その気なら俺は二十四区のことを事前に教わることもできる。しかし、それを教えることのできる彼女との繋がりは公にできないから、今は実際に何も知らずに探索する他ないのだ。
 今、地上のどこかで彼女は暮らしている。
 アオギリとしての活動か、そうでなければ部屋に閉じこもって本の執筆か。あるいは他のことか。不規則な動き、不規則な生活をする彼女の行動は読めない。
 俺は彼女の髪があたたかな雨に当たっているといいなと思った。
 しっとりと濡れた質感と、いつもよりまっすぐ垂れたかたちと、洗い残しのリンスを含む彼女の甘い匂いと。そんなものが今、地上にあればいいなと思う。
 たとえ触れられなくても、存在はしてほしい。
 その願いは、愛というものへの感情と酷似していた。


U


 高槻泉先生のサイン会に来るのは初めてだった。二度目のサイン会だという友達に連れられてやってきた。
 外は土砂降りの雨。傘を振り、備え付けのビニールにねじ込んでから会場である書店に踏み入る。
 折角憧れの作家に会えるのに、頑張ってしたお洒落が雨で崩れてしまっていた。
「や、やっぱり帰りたい……」
 ぐちゅりぐちゅりと、歩く度に靴から滲み出す雨水に、わたしは泣き言を漏らす。通った後の床までびしょびしょになっていた。
「ここまで来て何言ってんだよ」
「だって……」
 一方、レインシューズを手に入れてそれで合わせてきた友達の足元は綺麗なものだ。普通のお洒落靴で、なおかつ水たまりにどぼんしたわたしとは大違い。態度も高槻先生のように堂々として……って、最後のはいつも通りの違いだった。
 彼女はひとつため息をつくと、私を化粧室に引っ張って行く。絶対崩れが酷いから鏡を見るのが怖い。
 果たして化粧室で見た自分の姿は、想像通りの有様だった。
 友達はいつでもまっすぐなボブヘアーから髪留めを一つ外して前髪をちょいちょいと整えると、癖っ毛が湿気で大爆発して崩れたわたしの編み込みを軽く整えて、自分がつけていた髪留めをつけて誤魔化してくれる。
「あたしがここまでしてやっても帰るって言う?」
「言わないよぉ。ありがとー」
 優しい友達の言葉にわたしが泣きそうになって言うと、友達はわたしにデコピンする。親愛を感じるほんの小さな暴力行為。痛いけど、わたしは友達のデコピンが好きだった。
「お礼は無事にサイン貰ってから。ね?」
「うん」
 友達に諭され、トイレットペーパーで靴の水気を少しでも取ってから、わたしはサイン会の列に並んだ。
 高槻先生の本を一冊ずつ持って、わたしたちは順番を待つ。
 先程遠目にチラリと見ただけでも、高槻先生は綺麗だった。あんなに美人で、ちっちゃくて(つまり可愛くて)、頭の中身まで素晴らしいなんて、すごい……。
 ドキドキしすぎて視界が狭まっている。更には心臓が耳にもついているような状態にもなって、周りのことがわからなくなる。ずっと前の方でサインやお喋りをしている高槻先生の明るい声だけはなんとか拾えた。
 わたしは、すぅーと鼻で息を吸う。本の匂い、雨の匂い、人々の匂い。それから友達と自分の匂いをいっぱいに吸い込んで、少し落ち着く。昔から鼻だけは周りよりもずーっと良いので、こうして周りを把握して心を落ち着けるのだ。
「はー…………」
「お前なぁ」
 友達はわたしが何をしたのか気づいて呆れ返っていた。
 落ち着くと、わたしたちの目の前に並んでいる長身の男性から気になる匂いがすることに気づいた。
 先程までとは別の意味で心臓が跳ねて、わたしは友達の手を握る。
「どした?」
「ん、何でも?」
 不審がる友達に、わたしはとぼけて見せる。こんなところでことを荒立てたらいけない。もっといけない。わたしはこっそりと男性の様子を窺う。
 眼鏡を掛けた、がっしりした体格の人だ。しかし整った顔や姿勢からは繊細な雰囲気が漂っている。白髪混じりだから結構なお年なのかと思っていたけど、よくよく見ると二十代?くらいの若い人だった。
 いやいや容姿や年齢層はともかく。高槻先生に何かあったらわたしは立ち直れない。どうしよう。
 けれど現実は非情で、わたしがおたおたしているうちにその人の順番が来てしまう。
「あの、さ」
 わたしがこそこそと友達に話し掛けようとしたとき、ガタ、と高槻先生が座っていたパイプ椅子の音がした。
 振り返ると、さっきまでどんなにテンションを上げても座って話していた高槻先生が中腰になっていて、すっと腰を下ろすところだった。
「いきなりひどいな」
 長身の男性は反らした体を戻しながら平然と言う。
 高槻先生の方は、先程までと同じようなフレンドリーさでいながら少しだけ怒っているような強さを滲ませた口調で言う。
「ありゃーごめんなさい。ホホホ、将来有望なおでこだったから! でもすごいですね、いきなりデコピンしたのに避けちゃって」
「そうかな。でも将来有望なおでこ、はないと思うよ」
 とぼけた会話に、わたしと友達は顔を見合わせる。
 わたしが心配したようなことは起こらないみたいだけど、なんだろう、これは。
 後ろを振り返るけど、誰も反応していない。わたしには他より親しげに見える会話にすら無反応で、嫉妬のヒソヒソ声が広がるなんてこともない。
 気のせい、かな?
 考え込むうちに目の前の美男美女のやり取りが終わってしまい、わたしは真っ白な頭のまま高槻泉先生の前に立つ羽目になってしまった。
「おやぁ、可愛い二人組だこと! おめかししてきてくれたの? 可愛いですな〜!」
 高槻先生はそんなわたしにさえ陽気に話し掛けて、サインと素敵な思い出をくれた。

 帰り道、わたしと友達はサイン本を大事にコインロッカーに隠して、ここに戻ることを誓い合う。
「にしても、あの男の人……ヒトの匂いと喰種の血の匂いがしたけど、高槻先生には何もしなかったな」
 わたしがポツリと言うと、友達は驚いて言う。
「えぇ、捜査官だったのかな。怖っ。でもお前みたいに鼻のいい喰種ならともかく、人間が気づくはずないだろ」
「そうだね」
 高槻先生の匂いを思い出す。喰種の匂いはするけれど、ほぼヒトの匂いに紛れていて、普通なら確信し難いのだろうなぁという感じだった。わたしは鼻がいいから、喰種の匂いが高槻先生本人のものだとわかったけれど。
 ……でも、先生はどうやってヒトの匂いもつけているのだろう。それに、あの長身の男性とはどういう関係なんだろうか。
「……まぁ、考えるのは帰ってきてからにしよ」
「うん」
 友達が震える手でわたしの手を取って、わたしもその手を握り返す。
 取られた喰い場を取り返して、二人でゆっくり本が読めるように。駅のコインロッカーと、高槻泉先生のサイン本に祈った。


V


「もぉー、聞いてよタタラさーん、王様がねー! ……」
 すべきことが一段落して“切り替え”終えていたエトが、先程までノロを相手に吐き出していたであろう愚痴の内容をそのまま向けて来る。ゆらゆらと立っているノロの傍を離れて、俺の前で。
「……って感じで全然手加減なしだったの。痛かったー」
 甘えた物言いをするエトの頭に手のひらを置く。
 恐らく飴を与えられているのはこちらの方なのだと自嘲しながら、それでも俺は心和むのを止められない。
「それもそうだけど、エト、びしょ濡れだ」
 濡れそぼった髪を指で掻き分けながら指摘すると、エトはふふふと笑う。
「雨だけは私たちにも捜査官たちにも平等だったねぇ」
 目を細めて何を考えているのか、残念ながら俺には手に取るように分かる。
 王とエトの間に何か特別なものが流れていることには、とうに気がついていた。
 そもそも二人にも、隠すという意識はないだろう。ただ、積極的に話すようなことではなかっただけで。
「また、別々に頑張らなきゃね」
 俺は慣れきったように、彼女の言葉を肯定した。


W


 雨は良い。
 分厚い弾幕のように激しい雨は匂いも音もかき消して、ひとときの安息をもたらしてくれる。
 だから才子はあの日も、一人で歩いて出掛けた。レアなゲームが置いてあるという中古のゲームショップを訪ねて。
 ママンに傘とタオルを持たされて、シラギンにヒョウが降ると言われて、むっちゃんこに一通り心配されて家を出たものだった。確かウリ坊はいつも通り黙っていた。
 裏道を歩いて、CCG本部の近くに差し掛かったとき、有馬貴将が誰かと同じ傘に入っているのを見た。髪の長い女の人だったはずだ。一瞬目を離した隙に消えてしまったふたりの影を、薄ぼんやりと覚えている。
 あの人でも恋人はいるのだろうか、なんて呑気に思っていたけれど。もしそうだったのだとしたら、きっと悲しんでいるであろう女の人は、ママンを憎んでいるのだろうか。

 久しぶりに土砂降りの雨と休日が重なった今日も、才子は一人で裏道を歩いている。
 見つけるものはといえばカエルくらいで、遠くの喰種の匂いも血の匂いも感知出来ない。小さな傘に守られたような小さな平和だ。
 重たかった髪を切った才子はここのところ、後輩たちの指導に追われている。主に色々と代わりにやってもらうために。悪くない忙しさだと思う。
 あんなに嫌だった喰種との戦いも、一緒にいられなくなったシラギンを含めた仲間のためにと必死になるうちに慣れ始めてしまっていた。
 傷つくことは怖いけれど、傷つけることは怖いけれど、守りたいものを傷つけられることはもっと怖かった。
 元々努力家で力のあった瓜江班長も、才子と同じく大きく成長した。追いつく気もないけれど、距離が全く縮まらない。そして急成長したむっちゃんこには滅茶苦茶差をつけられた。
 むっちゃんは…………。
 パシャリと水たまりを思い切り踏んで我に返る。知らない道に来ていた。
 才子はスマートフォンを取り出して現在地を確認する。さほど知った道から外れていなかったので、慌てて元の方向に戻る。今回もゲームショップに長居しすぎたのだ。遠回りまでしてしまったら夕飯に間に合わない。
 というかこんなに遅くなるとは全く思っていなかった。着信履歴が何やら積み上がっていて、確認するのが怖い。
 ひとまず何も考えずに、足早にシャトーへと向かう。
「米林!!」
 あと少しといったところで瓜江班長の怒った声に弾かれて、才子は反射的にシャトーと別方向へ走って逃げた。
 帰らないと話にならないのはわかっているけれど、だってなんか怒ってて怖い。
 何も考えずに走ったら傘の骨が何本か折れた。丁度雨脚が弱まってきたので、そのまま傘を放り出して逃げる。
 が、そんななりふり構わない逃走も徒爾に終わった。
「……米林、何故逃げた」
 息を乱した班長は、猫でも摘むように才子の首根っこを引っ掴んだ状態でそう問う。
「何か怒られるのかと思って、とりあえず」
「とりあえず……」
 才子は正直に申告したけど、絶句された。くだらない自覚はあったので笑って誤魔化す。些か首が苦しい。
 雨が降り止んでしまったために空気まで停滞したように感じて、シンプルにつらさが増す。
 ウリははたと気づいたように襟首から手を離すと、今度は反射的に振り向いた才子の肩に両手を置いて、大きく息をつく。
「心配したんだぞ」
 苦しそうな響きに心臓の裏側がずくんと痛んで、その痛みに押されたように言葉が転がり出る。
「ごめん、瓜江」
 多分、この男は今、失うことを一番恐れているのだと思う。
 私たちは掛け替えない人を喪って、失った。佐々木琲世を、不知吟士をうしなった。
「……なぁ、」
 才子はひとつのことを口にしようとして、息を小さく吸っただけのまま迷う。
 今の私たちが六月透をも取り落としかけていることに、気づいているだろうか。私はそれを言ってもいいのだろうか。
 恋心のようなものが見て取れるからこそ、迷う。
 むっちゃんはこのままではどこかへ行ってしまう。けれど下手な方法で手を伸ばしては、その指先に弾かれてより早く、より遠くへ行ってしまうのではないか。
 この脆いところのある男にそれを伝えても、いいのだろうか。
 才子は少し考えて、結局にんまりと笑う。
「……痛いでウリ坊。そんなに心配せんでも才子はどこへも行かんよ。おウチが一番やからな」
「…………だったら……とっとと帰って来い」
 何か考えているのだろうか、間が多いウリ坊がふいと目を逸らす。
 雨粒がまた、ぽつりぽつりと空から落ち始めた。
 ウリは黒い傘を開いて才子との間に差すと、無言で歩き始めた。才子も止まっていた足を動かして横に並ぶ。
 さっき放り出した傘は回収したものの壊れていて、結局、才子たちは相合い傘をしたまま歩いていく。
『あんたの方こそ、どこへも行かんでよ』『まあでも、残っていてくれてよかったわ』
 言いたい言葉をふたつ飲み込んで、才子は雨音を聴きたいふりをして黙り込む。
 近くにある隣の体温が温かくて心地いい。才子だってこれ以上、家族と離れ離れは嫌だ。
「米林、お前は雨が好きなのか」
 ぽつりと落ちてきた疑問に、才子はウリの袖口から香る食材の匂いを嗅ぎ取ってから、笑って返す。
「才子はハンバーグが好きやな!」


X


 オッガイ――リゼの赫包で生み出した沢山の子供たちを前にして、僕は有馬貴将との会話を思い出す。

 それは何の意味もなく、戯れに問い掛けてみただけのものだった。
「キショーさんって、子供は何人ーみたいな夢考えたことあります?」
 するとあの人は目を丸くして、心底不思議そうに問い返してきた。
「えっ、旧多はあるの?」
 僕はニコッと笑って、本音はいずこか、まあ明るくトバす。
「まあ……景気よく百一人ほど」
 CCG本部のビルから外を見上げると、重たそうな雲が空を覆っていて、それこそ景気よく雨粒を生み出している。
「無理じゃないかな、色々と」
 冗談と受け取ってほしかったのに本気で返されて、僕は無になりたくなるけどそのままで終わるのも癪で、更に言葉を重ねる。
「もしもです。もしも。キショーさんは考えたことないんですか? ホラ、どんな子がいいかーとか」
 すると貴将さんは暫く考え込んで、ぽつりと言う。
「多弁で感情豊かな子がいいな。父親には似てほしくない」
 取り付く島のある回答をするものだから、僕は多少ニヤニヤして更につつく。
「いやいや、容姿端麗頭脳明晰! おまけに強い! そういうところは似た方が嬉しいんじゃないですか?」
 そう、そのとき確かにあの男は言ったのだ! 結構決定的なあの言葉を!
「それはきっと、母親に似ても一緒だよ」

 そのときの僕に具体的な心当たりはなかったから、「存外好みがはっきりしてますね」だなんてつまらないイヤミを言うのが精々だった。けれど。
 今思えば条件に当てはまるのがいたのだ。『多弁で感情豊かで容姿端麗頭脳明晰で強い女』が。
 まったく、忌々しい。


Y


 いつか有馬さんが話してくれたことがあった。
「タタラが言うには、俺とエトは両極端らしい」
「……はぁ」
 気が抜けた返事をした俺に、有馬さんはマイペースに続けた。
「あっちは圧縮して無理やり押し込めたみたいにすべてが詰まってる。らしい。だから俺とあいつは引かれ合うものがあったんじゃないかって」
「はぁ」
 有馬さんは空っぽ、ということなのだろう。以前に似たようなことを言われたので、何となく理解を飲み込む。
 唐突な話題に続きはなく、俺たちはその後はいつものようにただ無言で座って酒を呑んだ。

 そんな何でもなかった日のことを、ふと思い出していた。
 救護スペースの隣の補給所でパイプ椅子に腰掛け、現状の確認も終えて、脳の隙間に記憶が飛び込んで来たのだろうか。
 俺と、それから行動を共にしている夕乍も、状況の確認と飲水の補給は今しがた済ませた。
 人間を使う以上一応配置は回転するようになっており、最低でも数時間に一度はここに戻り、留まることになっている。
 若干気が逸っている様子の夕乍にクールダウンするよう言って、今一度呼吸を深くする。少しでも効率よく活動するために、休息にも貪欲になる必要があった。
 誰もが雨に体力を奪われ続けている。不測の事態も各所で起こる。我々はそれらに対応しなければならない。
 目を閉じて。
 周囲の騒がしさを無視するように、雨音がやたらと耳についた。
 現場に戻って少しする頃にはやはりというか、体調不良で救護スペースに運ばれる者が多数出始めた。CCG職員ですら充分に動けなくなるケースがあった。
 訓練を詰んでいない……その上飢えている一般の喰種などひとたまりもなかったに違いない。身体能力の高さが油断に繋がったのも大きいだろう。体力を見誤って倒れる者が特に多かったのは、黒山羊から合流した人員だった。
 頭数が減れば、自然、動ける我々にしわ寄せが来る。
 瓦礫の下から救助を呼ぶ声が聞こえたが救出の手が足りず、他のエリアから応援を呼ぶことになった。
 クインクス班から、赫子の扱いに長けた米林が派遣されてくる。
「皆さん退避おねがいします! 救護班は担架を三つ持ってきてください!」
 米林はそれだけ言うと、お好み焼きの返しによく似た形にした赫子を瓦礫に差し込み、ゆっくりと持ち上げる。砕けた欠片ひとつ下に落とさない。
 俺と夕乍はいつでもサポートに入れるよう、米林の近くで待機している。が、米林はそれを制するように宣言する。
「かなり脆いのでこのまま赫子で救出します」
 果たして米林は、ものの数分で埋もれていた市民三名を救出した。
 まず、彼女は目を閉じると、別で出した赫子を隙間に差し入れた。そして、怪我人の取れかけた腕を支え、気絶した人の首を支え、怯える子の手足を押さえてと、状況に合わせた対応で三名を外に出す。それから救護班が用意した担架に乗せていった。
 戦闘訓練だけでは得られそうもない、迅速で繊細な動きだった。
 近くにいた俺たちは、赫子に及び腰の救護班数名より先に近づき、市民を担架に固定する。
 救護班はすぐに我に返りテキパキと毛布を掛けていくが、一般から来た救急隊員は口があんぐりと空いたままだ。
「すごい…………生まれつき持ってる赫子でもここまで出来る喰種、滅多にいないのに」
 夕乍も呆然と呟く。
「ああ。相当の技術だ」
 赫者になるには共喰いを繰り返せばよい(ただし体質に大きく左右される)が、自在に形や動きを変えるには別の要素が必要になる。
『資質は一番なんですけどね……モチベーションが低いせいで……』
 かつてそう言って、困り笑いを浮かべていた人物のことを思い出した。
 欠勤が多く、見掛けるようになっても見学に来た子供と見紛うような態度や雰囲気だった米林はここにはいない。見せてやりたいな、と、我ながら珍しく感情的なものを持ち込む。
「米林二等、助かった。後はこちらで続行する。班に戻ってくれ」
 俺が声を掛けると、頼もしくも小さな背中の持ち主は頷く。
「はい。後は頼みます」

 ……ということがあったばかりなのだが。
 次に補給スペースに行ったとき、クインクス班とタイミングが被った。
 先程イメージが変わったばかりの米林は、クインクスの班長、瓜江に絡んでいた。
「はー、才子たちめちゃんこ頑張っとるで。これはあとでご褒美がいるな」
「…………」
「次の当番班長やったな。才子カツ丼。カツ丼食べたい」
 元のイメージそのままに、幼い振る舞いだ。瓜江は何か言葉を返しているが、こちらの耳までは届かない。
 先程のあれは気のせいだったのだろうか。
 ……いや。
「ヒゲとシャオも、ご褒美考えとってな〜」
 素直な明るさを振りまくのもまた、役割の果たし方なのかもしれない。
「無事に帰るためにも、まずは気を引き締めろ。警戒も怠るなよ」
 瓜江の声もこちらに届く。
 柔と剛、凹と凸、……見た目からも正反対の二人だ。だからこそなのか。班の年長者として上手く機能するものだな、と感心する。
 やはり正反対なものは、互いによって互いを埋め合うように、惹かれ合うのかもしれない。かつて有馬さんが芳村エトのことをそう捉えたように。
 と、ぼんやりと視線を置いたままにしていたその先、瓜江と目が合った。
 瓜江はものすごく気まずそうに目を逸らし、無意味に咳払いを繰り返す。どうかしたのだろうか。
「…………ああ、なるほど」
 少し記憶を手繰って得心する。はっと気づいたとき、瓜江は恐らく無意識に米林の頭を撫でようとしていたのだろう。これは悪いことをした。
「どうしたんですか、タケさん」
「いや、何でもない」
 俺の独り言に反応した夕乍に返事をして、立ち上がる。
 思考の寄り道は、この辺りにしておこう。そろそろ持ち場に戻っていい頃だ。
 何せよ、俺は役割を果たし続けるだけだった。有馬さんが示した道は、信じるに足るものだから。



 折れた傘があった。
 24区と地上の中間地点であるここに、こんなものは必要ない。何故落ちていたかもわからないし、何故拾ったのかも、よくわかっていない。クインケを片手にぶら下げたままの彼と釣り合いが取れていいと思ったのかもしれない。
 それにしても。まさか地下で堂々と喰種と密会しに来るとは思わなかった。
 彼の周りの人間など想像さえしなかったのだろう、彼はあっさり班を離れ、“調査済み”のこの場所に現れた。
 手を組んだばかりの私と有馬貴将は、構造物の適当なところに腰掛けて、話をしていた。
 と、排水口から流れ出続ける水の音が変わった。
 私はぽんと傘を差して、私と彼の間に翳す。
「何?」
「雨が降ってきたから」
 彼の疑問に私はとぼける。
 細い骨がいくつも折れて狭くなった傘の影は狭く、少し距離のある二人を全く覆えていないけれど、冗談には丁度いいだろう。私はそれくらいの気持ちでいた。
 しかし彼は私の肩を抱き寄せて、わざわざ距離を詰める。
 それは、彼なりのごっこ遊びへの拘りで、それ以上のものは何もないのかもしれない。いや寧ろ、他意がないからこそ私も不快感を覚えないのだろうか。
 私は妙におかしくて、くっついたままの体温から離れずに、はじめて彼に屈託なく笑う。
 雨は、止まないような気がしていた。

 Twitterでお誕生日リクエスト募集したときに『有エトか貴エトか有泉か有エトか初代隻眼の王×梟か5000兆円か有エトかフェニックス一輝×アンドロメダ瞬か瓜才か瓜才か瓜→睦な瓜才か小次健(こじけん)か5000兆円が欲しいです。』というパンチの効いたメッセージを頂いたので有エトと瓜才は全部書こうと思って書いた。
 どこが有泉かとかそういうのを見てふむふむしてくれるとうれしーかも。ただ、有エトが一個多くて瓜才が一個足りてないっス……orz

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