「ルイージ、久しぶり……にちゃんと聞いてるわよねぇ。あやしい。まーとにかく久しぶり。元気してる?」
十四歳と十一ヶ月と十八日のトウキの声を再生する。
大丈夫、ちゃんと久しぶりだよ。と心の中で返事をしながら。
ロリ……いや、心からの寵愛を向けた女性との約束は、たとえ一方的に押し付けられても守るものだ。だから、指定された日に再生している。
今の彼女がどうしているかどうか、ぼくには知ることができない。探偵として調べる限り元気にしているようだ。そこまでは分かる。でも、本当のところがどうなのか、あの生活のことを今どのように位置付けているか、それは全くわからない。
警察のお世話にもならずに今ぼくが探偵をやっているということは、復讐心のようなものは持ってないと見ていい。だけど、悪感情があっても『もう二度と関わりたくない』と思っている、という可能性は否定できない。
「うーん、話題も尽きてきたわね。あ、そうそう、あたし、ルイージのこと結構好きだったわよ。今のあたしがどうかは知らないけど」
トウキの赤い唇が小悪魔的な笑みを浮かべるのを、目つきがいじめっこを多く露出させるのを脳裏に浮かべる。それは声の補助もあって、完全に脳内再生された。
「…………」
トウキの、無言の呼吸音が聞こえる。唾を飲む音。
「ほんとはルイージのこと割と好きって認める気なかったのよね。うっかりしたけど。でもこれを聞く頃のルイージにトウキは永遠に手に入らないわけだし、いっか」
成長へと向かう、大人びた一面がちらつく。
「それじゃ、また次回」
そして、平均より少し長い今日の分のメッセージも終わった。
ぼくはMD(もう潰えて久しいメディアだ)を止めてケースに仕舞う。ケースに入っている紙にはトラック番号と再生のタイミングを指定する日付が書いてある。
ぼくがトウキの言葉を受け取る残り回数は、あと一回だ。しかも、それは明日。ラストの畳みかけだ。
あとほんの少しであることを苦しく思う一方、やっと解放されるような気分も僅かに芽生えている。
トウキは巧妙な女性だった。データ再生の空白期間も、データの個数も、最後まで音声に付き合う上で新鮮味を失わない丁度を狙ってきている。これでは途中で諦めて聞かなくなることもできない。いや、そんなことは絶対しないけど。
トウキは十六歳の誕生日どころか、十五歳の誕生日も待たずに、トウキのままでぼくの前から姿を消した。トウキは、木曽川の手土産の録音機能と少量の血痕付きMDプレイヤーと、エリオットと所長にそれぞれねだっていたという、音声を吹きこんだMDを残していった。そして、王冠を模した髪留めも置いていってしまった。あれは事務所に置いてある。最初の頃、部屋で一人のときに見るのは少々つらかったから、お願いした。
一番つらく感じたのは、ぼくの二十五の誕生日を祝う音声を聞いたときだ。あの音声のトウキはぼくの胃をねじ切りにかかっていた。そんな戦略的なことをしつつニヤニヤしているトウキへの動悸息切れも酷かったわけだが。
畳みに寝っ転がり、残り一回分のトウキが入ったMDを電気に透かす。当然、中の構造が少しわかるだけだ。基本色が半透明な桃色のこのMDの中に、トウキが残留している。
「………………」
いっそ、この残りを再生せずに、未知のトウキを永遠に傍に置いてしまおうかとも考える。何度もそれは考えた。考えても結局再生していたが。
そろそろ寝ないと仕事に響く。ぼくは電気を消して床に就いた。ふかふかで厚みのある布団が、心の重量で沈みこんだように錯覚する。声しか残っていなくても、トウキは美しかった。
所長もエリオットも、少なくとも表向きは何も変わらなかった。よって仕事パートはカットする。ちなみに、今日依頼された迷子の犬はすぐに見つかった。
結局ぼくは、MDの再生ボタンを押す。
「最終日到達オメデトウ。アリガトウ。どうせだから衝撃の事実を教えてあげる。あたしのファーストキスの相手はルイージよ。本に書いてあったキスがどんなものかわからなかったから寝てるときにこっそりね。あーあたしも若かったわー」
噴飯ものだった。何も口に含んでなくてよかった、と安堵する。なんだと?
「結論から言うとあれの作者はキスしたことないわね」
偉そうな講評に思わず頬が緩む。十四歳と十一カ月と三十日のトウキは、やはり声だけでも素晴らしい。
「……ところでルイージ、あたしが居なくなって、寂しかった?」
急にしおらしくなる声に、心を固定していた位置が少しぶれた。
「ま、別に居なくなったこと謝らないけどね。ルイージひでーやつだし」
MDと歳月越しにトウキが笑う。その声は部屋干ししたシャツのように湿っているようにも思えた。
「こっちは、すごく寂しいと思う。でも、パパのところに帰ったらケロっと忘れちゃってるかもね」
ぼくはトウキが消えてから調べた彼女の足跡を思い浮かべる。確か、父親は健在だ。それどころか十五歳を過ぎてからのトウキの周囲で、目立った殺人は起こっていないようだった。それを知ったときの安堵が、胸をくすぐる。
「ごめんなさい」
最後の音声は、そんな滲んだ言葉といつもより慌てたようにスイッチを押す音でしめられていた。
何に対するごめんなさいなのか、ぼくにはさっぱりわからない。これではまだまだ、トウキから離れられないじゃないか。
勿論ぼくは一途な人間ではない。他に心惹かれることなどいくらでもあったし、ある。ただ、ずっとトウキがここに居るままのような気がした。
「ずるいなぁ……」
トウキから受ける言動だというのに、不思議と口元が緩まない。
不快な訳ではない。いつまでもこうしてだっていたい気持ちもある。ただ、歓迎できない。
トウキはぼくの中で永遠に幼女のままでいることを選択しただけでなく、その存在感に縛られる期間を設けて行った。そうするだけの価値をぼくに見出してくれたことは、歓迎できる。
問題は、その期間が終わったぼくまで進みづらくなってしまっていること。少なくとも今はそう思えてしまっていることだ。
ぼくは寂寞に縛り付けられたかのように、固まってしまう。
このままではルイージとトウキの結末は、苦くぱさついて長い間へばりつくまるで成長と衰退の残酷さのようなものになってしまう。こんな終わらない結末を受け入れる? それはない。だからぼくはぼくで、これをなんとかしなければならない。
心の位置はズレたまま、落ちないように支えるのが精一杯で、この位置に固定されてしまう気がした。
どれくらいそうしていただろう。時間が経って、アパートの扉がノックされた。
「はぁーい」
気の抜けたような返事しか出来ないが、のろのろと体を起こし、扉を開く。
ゆっくり考えごとをしたいのに一体誰かと思えば、そこにはブレザーを着た女子高生が立っていた。肩までもない髪の前髪を黒いヘアピンで止めて、ほんのり化粧をしている。道でもよく見かけるような、ぼくからするとおばさん。
口をぽかーんと開けていると、彼女は唇を、舐めてから、緊張したように開く。
「太郎くん、久しぶり。縛り付けてごめんって、ちゃんと言えなかったから言いに来た」
それから前髪をいじって、ちょっと所在なさげにてかりのある唇を尖らせた。
「今日までに色々気持ちの整理済ませてきたんだから、かなり評価されてもいいと思うの」
「えと、きみ……」
何て呼んだらいいのか迷いきみと言ってみたがどうにも不自然な気がして、言葉が途切れる。彼女はその半端さににやつく。
「誰かわかんなくなっちゃった? 太郎くんも大したことないのねー」
その意地悪そうな口の釣り上がり方に、とても見覚えがあった。あの頃はもっと化粧品によるものでない本物の艶があり、一級の美術品のような輝きを放っていた、あの唇のなれの果てだ。
「私よ。上真桑桃子。友達のこと忘れたわけじゃないでしょ? 少ないんだし」
うわぁ、事実で馬鹿にされた。のはともかく、彼女の口から出た言葉を順を追って咀嚼する。
『縛り付けてごめん』
さっきまでの逢瀬で十四歳と十一カ月と二十日の彼女が言っていた『ごめんなさい』の意味は、あっさり氷解していた。
そして、目の前の彼女、その声、姿。面影は残っている。しかし、別のものだ。トウキのまま保存され続けると思われた彼女の姿はあっさりと上書きされる。
拍子抜けしたと同時に、もう少しだけ足を突っ込んだままでいると思われた女々しい物語の外に引っ張り起こされて、力が抜けた。
もういっそ、笑えてくる。こうなったら彼女に掛ける言葉はただひとつだった。
「久しぶり、桃子。元気そうで何より」
その日のぼくは、トウキを失ったことに咽び泣き(最近とみに涙腺が緩い。老化の兆しが怖い)、桃子に笑われた。
その日のぼくは、大切な友達である桃子に久しぶりに会い、そして、初めて会ったのだ。
違うんだ。これはキャラ崩壊じゃないよ。ボクは数年後のトウキさんが録音した音声を残していると何かときめくことに気づいただけなんだ。キャラ崩壊じゃないよ。仮にキャラ崩壊だとしても、キャラ崩壊という名の二次創作名物だよ。
実はとてもドロドロしている短編でした。えへ☆ どの辺がドロドロしてるかわかるカナ?
タイトルはシンフォニック=レインの楽曲から。