とっておきの話。

「わたしは正気でいたいだけ」
 それが彼女の口癖だった。
 綺麗な見た目に惑わされて彼女を好きになったぼくに、彼女は無垢な笑顔を向けた。
「ね、わたしのこと好きって言ってくれた人なんてはじめてだから、教えてあげるね」
 秘密基地のようなあの白いばかりの部屋で、彼女はぼくに耳打ちした。
「わたし、普通の人っていうのと違うんだって。いつも頑張って人真似してるけど、なんか違うんだって」
 そこから先に説明された、いわゆるサイコパス的な、他人に共感せず、優しくする感情もよく理解しない彼女の性質が事実だということは、彼女が平然と生き残っている事実を以て納得せざるを得なかった。
 もう助からない事故だった。しかし彼女が、自分が助かる道を選ばなければ、大勢の人が助かった。それを責める気はない。誰も責めてはいけない。けれどそれでも、自責のかけらもない彼女は、世間に敬遠されざるを得なかった。
「わたしは正気でいたいだけ」
「うん、知ってるよ」
 笑った顔が綺麗だった。悲しそうな顔が嫌いだった。
 世間一般的に狂気としか思われない本音を聞いたあと、彼女なりの正気を肯定するのがぼくの日課だった。他人の正気に合わせてしまえば自分にとって狂気に落ちたようで怖いのだと、彼女は泣いた。ぼくは柔らかい髪を撫でて、日差しばかりが保障されたあの中庭で寄り添っていた。
「ね、そういえばきみはなんの病気なの?」
 その日は確か中庭の小さなテーブルでお茶を飲んでいて、そんな今更な質問をされた。
「ん? なんだっけな。あー、あれあれ、虐待とかなんとか」
 ぼくはぼくで適当に答えた。
 手をつないだことはあまりなかった。汗が滲むのが気持ち悪いのだと、彼女が言ったから。
 ただ隣に座ることは許されて、それでもぼくはぼくの思うように彼女に接した。
 普通に友達にするように、困っていたら助けた。楽しいことには誘った。彼女もそれを真似て、でも時々「嘘ばかりできみに悪い気がする」と泣いた。「泣くのはわたしなりの愛かしら」と笑った。
 ぼくの適当な答えを聞いたのか聞いていないのかわからないような態度で彼女は、
「そっかぁ。……あのね、ごめんね。貰ったお菓子、全部自分で食べちゃった」確か普通じゃそれは駄目なんだよね?
 脈絡なく方向転換した話題を寄越した。
「別にいいよ」
 ぼくは笑って、迷う彼女を慰めた。
 そんな普通の日だったけれど、それは、ぼくと彼女にとって、いや多くの人にとって終わりの日だった。
 ぼくがふいに空を見上げた時、それは訪れた。
 地面がなくなったかと思った。それほどの揺れに襲われて、足が竦んだぼくを彼女は突き飛ばした。ああそうか、とぼくは納得した。ぼくと彼女が着いていたテーブルは小さすぎて、一人しか入れないからだ。そうこう考えるうちにも庭を囲む建物のコンクリートの欠片がバラバラ落ちてきて、植えられている木も立っていられるものか怪しくて、ぼくは目を閉じてしまいそうになった。
 けれど、彼女はテーブルに潜らず、不器用に手を伸ばしてぼくの手を掴んだ。揺れの方向が一瞬テーブル向きになって、ぼくと彼女はすっとばされた。
 彼女は混乱の中でぼくをテーブルの下に無理やり押し込めて、まるでぼくからはぐれることだけを嫌がるように、地面と一緒になっている椅子にしがみついた。
 すぐに木は倒れてきた。ひび割れていたコンクリートは欠片と呼びたくなくなるくらい大きな欠片を落として彼女の背を打った。ぼくは横から飛んでくる砂か何かが目に入りそうになって、目を瞑った。
 どれくらい経ったのかわからないけれど、その大きな揺れは収まった。ぼくが目を開けるとそこには頭からだらだらと血を流して泣き笑いする彼女が居た。背中から向こうはもう瓦礫に覆われていて、ぼくの、どんな惨状なのか考える力は、止められてしまった。
「ごめん。ごめんね。ごめん、わたし、ごめんなさい」
 今にも息絶えそうな見目の彼女は、ただひたすら謝罪を繰り返した。泣いていた。少し笑っていた。
「ご、めん。ごめ、ね」
 ぼくのはっきりしない意識と、むき出しで鋭敏になった心は、その向こうの別の意味を見た。本当にそう言いたかったかなんてきっと誰にもわからないけれど、それはその時のぼくにとっては純然たる真実だった。
 ぼくは、それに、自分の心からの言葉を返した。
「ぼくも……」
「ごめんね。……ご、めんね」
「ぼくも、愛してるよ」

 彼女とぼくの終わりは尻切れトンボで、なんだか釈然としなかった。

 それからどれくらい経ったのが今なのか、実は正確には理解していない。
 ただ、彼女の悲惨な泣き笑いをまぶたに焼き付けたぼくが、彼女の残酷な嘘に生かされたぼくが、彼女を狂気に落としかけたぼくが、最後に残った正気に愛されたぼくがその先どう生きてここまで来たのか、どこへ行くのか……それはとっておきの話。きみなんかに教えてやるわけにはいかない。

電撃文庫MAGAZINEの『電撃メジャーリーグ』っていうやつのお題を勝手に拝借して書いた。ちなみにそのお題は『とっておきの物語』。
それの条件が2000字以内って書いてあったから2000字ぴったりで書いてみた。
牢獄Pの『ペス、いっしょにきもちよくなろうね』を聴いてるとき書き出したから、前半はある種の、物語を簡潔にしたような歌詞ってやつに近いかも、と思っている。

index