彼女にとって、はじめての大学祭だった。
彼女が通う大学で行われる大学祭は三日間に渡って開かれ、元気な学生たちは各々『みんな』と企画し、または乗っかり、お祭りを楽しむ。
彼女はというと、元気な学生ではなかった。講義室の隅で大人しくしていて、注目されないタイプの女の子だ。それは高校や中学の教室でも同じだった。
見た目にも、元気な学生との違いは反映されている。化粧をする習慣がないための素顔、伸ばしっぱなしで肩甲骨まで伸びた後ろ髪、不器用なのに自分で切った前髪、こだわりないなシャツとジーンズ……。勿論お洒落はしなくても行動的な女の子は存在する。しかし、彼女の痩せた手足は生白く、激しく動かされることもなかった。
それでも彼女の足は大学祭の初日、大学の正門からの急な坂を登る。
祭り好きなわけでも、誰か待つ人があるわけでもなく、ただ単に、なんとなく。どうせ家が大学と近いから。
風も強いのに、彼女はそんな弱い動機で外出してしまえた。
案内をするための運営スタッフたちが坂の途中に居て、坂が落ち着いてすぐに運営のテントがある。きゃあきゃあわあわあと騒がしい声もどんどんと大きくなってきていた。
彼女は人混みの中をずんずん歩いて、ひしめく屋台の出店を通りすぎて行く。まだ四分の一も見ていないのに、どて煮の店だけでも三件は見ていた。彼女はそれらをすべて素通りした。
どて煮というのは、この地方の食べ物だ。牛すじや豚もつや大根や卵やこんにゃく辺りを赤味噌で煮込んである。
彼女はこの地方の出身ではないため、本当はすごく食べたかった。しかしどれだけ食べたくとも引き返すことはない。風の強さもあって、引き返すような元気がない。それに、混んでいる出店や空き過ぎている出店には近寄りがたかった。
結局彼女は店番二人と二人連れの客一組だけが居た出店で、揚げたい焼きとお茶を購入する。
たい焼きが用意される間、ふと彼女は振り返る。そして通り過ぎてきた出店の呼び込みの連中にはコスチュームを纏った人たちが多いことに気づいた。お揃いのTシャツだったり、アニメや漫画のキャラクターだったり様々だ。中には客としてたこ焼きを頬張るチアガールも居る。
進行方向も眺めようと体を反転させた彼女に、
「はい、たい焼きです」
揚げたい焼き屋の、茶髪の青年が愛想よく揚げたい焼きの入った袋を渡す。
「……ども」
彼女は軽く会釈しながら、先に受け取っていたお茶を持っていない方の手でそれを受け取る。
パリっと揚がった小さなたい焼きをはふはふと頬張りながら、多少余裕が出来た彼女はさっきよりはゆっくり進む。正面に見える講義棟の前に設置されたステージでは有名な楽曲が演奏されていた。ギターがバカみたいな爆音で、ボーカルは音痴だ。
色々な意味で、高校の学校祭を拡大させただけのようだと彼女は感じる。立ち位置は変わらず差が開いただけ。ノリもそんなに急には変われない。
彼女は「なるほど」と、自分は居場所がないことを確認しに来た可能性が高いと納得する。
そんな思考をしている間に彼女は揚げたい焼きを平らげ、お茶も飲み干してしまった。手荷物が邪魔だからと、それぞれのゴミを運営テントのゴミ箱にそれを放る。
そこに音楽サークルの黒いTシャツを着た女の子が声を掛けてきた。
「久しぶり」
「……ひさしぶり」
彼女の知っている子だ。一応挨拶し返すと音楽サークルの女の子はちょっと困った風ににっこり笑って言う。
「うちのサークルのライブ見に来てくれない? チケット……ノルマがね」
チケット売りが上手くいかないのだろう。
彼女は大学祭に使える額が少なくないことを思い、すぐに財布を出した。
「いくら?」
「ありがとう!」
会話が微妙に噛み合っていないが、音楽サークルの女の子は彼女の手を取って跳ねる。それは感謝の躍りだろうかと、彼女はくすりと笑った。
「一日分が二百円で、三日間使えるのが四百円だよ」
「わかった」
彼女は一度覗くだけのつもりで、でも迷わず四百円を出す。
チケットと小銭を交換して、彼女たちは人の波の中を別れていく。
彼女は先程から左手に見えていた講義棟に入る。その三階の一室が、あの女の子が所属する音楽サークルのライブ会場だ。
控えめながら休憩スペースにも展示があり、人がいくらか寄っている。絵が飾ってあるようだ。
彼女は受付を済ませ、会場に入る。丁度三年生のロックバンドがオリジナル楽曲を演奏しているところだった。先程の野外のバンドよりずっと聴ける演奏だと、彼女は耳を傾ける。けれどステージ上の熱意にはついて行けそうもなかった。
だからというのもあるのか、彼女はすぐにライブ会場を後にした。次の二年生のコピーバンドは歌詞間違いが多く、彼女の後ろ髪は全く引かれなかった。
音楽を聴きたい気分にはなったものの、彼女はこれじゃないなと思案する。
だから同じ講義棟内の二階の、フォークデュオサークルのライブ会場にも入る。そこは無料だ。
丁度二人の青年が、爽やかなオリジナル楽曲を暖かな雰囲気で弾き歌っている。
それでもこれじゃないと感じた彼女はそのライブ会場からもすぐに出る。そして次を探すことはせず、諦めた。
さっき思った通り、ここには居場所がないのだと。
彼女は、何も思い出に残らない大学祭というのも愉快かもしれない、と思いつく。そして自画自賛気味に内心でほくそ笑みながら、その講義棟から移動する。
その講義棟と、坂を登って真っ直ぐ歩くと正面にある講義棟は繋がっている。三階はお日さまと顔を会わせられる、手すりのついた渡り廊下。そして二階が、ガラスとコンクリートの壁を持つ渡り廊下だ。
彼女は正面の講義棟に渡ろうと二階の渡り廊下に入る。そして二、三歩歩いて、やっと誰も通らないような場所だと気づいた。
けなげに貼られたポスター群は、恐らくそんなに見てはもらっていない。
そこには外を吹く風が入らない。声も音もガラスに叩き落とされるように希薄になる。遠すぎず近すぎず見える出店や人混みや野外ステージが、彼女には切り離されたもののように思えた。
彼女が先程登ってきた坂の方を向いて立つと、過ぎてきたものたちがガラス越しに見える。風に木が揺れている様は、二階の渡り廊下からは完全に他人事だ。
視線をずらすと左手には野外ステージが見える。丁度彼女が視線を遣ったとき演奏を始めたバンドの音は、くぐもって聴こえる。
彼女は唐突に鳥肌が立つのを感じた。
今日大学に来てからはじめて、胸の底から呼吸をする。
誰かにとっての『みんな』が、歓声を上げた。その方向を、彼女は目で追う。
騒ぐ『みんな』たちのことが、彼女は嫌いではなかった。ただ、馴染めないだけで。
彼女はガラスにそっと触れる。この隔たりを、何より愛しいと感じた。
隔たりの向こうを、隔たりの向こうとして愛しんだ。
彼女はガラスの向こうのバンドが演奏する曲を口ずさみながら、機嫌よく胸の痛みに浸って思う。
この風景はきっと、思い出に残ってしまう。
この大学で起きた、起こる、何よりも。
彼女にとって、はじめての大学祭だった。
7月とかに書いた気がする。この間ちょっと改訂した。