才子の母は、決して強い人ではなかった。
弱さ故によく怒り、弱さ故によく泣くタイプの女で、それは子供の前で特に顕著だった。
けれど彼女は才子や兄を充分に育ててくれたと、才子は思っている。
父の元を出てからは特に、一人で頑張っていたのだ。
ただ、母が恋人のサポートで始めたスナック経営は、お世辞にも上手く行っていたとは言えなかった。
酒に酔った才子の母は時折、「あんたたちは養われていればいいから楽よね」と兄妹を詰った。ならばと二人がアルバイトを探してくれば「そんなに今の生活が不満かい?!」と泣きそうな顔で怒った。
「才子もわたしの味方になってくれないんだ」
相槌をいくつか間違えただけで母が泣き出してしまう夜もあった。
それでも才子は構わなかった。我慢できないわけではなかったし、時折優しい母が好きだった。
我慢なんて、努力と比べればとても簡単だと、才子は心の底で感じていた。母の苦労と比べるまでもない。
母とその恋人との時間のために兄と二人して家を空けさせられても、そんなものだろうと思うだけだった。それに関しては、母には母の人生があるというのが才子の見解だった。
才子の兄も多分、母に対して思うことは途中まで同じだった。そして、段々と離れて行った。
当然のことだが、才子と兄は常に一緒に過ごしたわけではない。家での過ごし方は同じでも、学校の教室も友達も、勿論遊びに行く場所も違ってくる。
更には才子が『母親の店に遊びに来た』という名目でスナックのカウンターに立たされる間、兄はアルバイトを許されるようになっていた。
成長につれて少しずつ知らない部分が増えて行くのは自然の摂理だった。
だから彼が家を出ると言い出したのも、きっと本当の意味で突然ではなかったのだろう。才子が気づかなかっただけで。
兄妹二人が通っていたCCGのアカデミージュニアスクールの卒業を待たずに、寧ろ学費の負担が減ることも母への説明の材料として、兄は出て行った。
才子は兄を引き留めることはできなかった。兄の選択が正しいとわかっていたからだ。
「お前も、ちゃんとそのうち家を出ろよ」
兄に言われたが、才子自身はそんなことは考えられなかった。
「才子はわたしを置いていかないよね?」
そう縋る母の手を振りほどくことはできなかった。
ここまで育ててくれたのは、母だ。
いくつかの意味であまりに弱く脆い母を置いては行けなかったし、才子自身も外に出ていく自信はなかった。
それに、才子は母に未練があったのだ。
そして、その日はやってくる。
才子は母に売られた。
より正確に言えば、その身の安全が。
本来才子はCCGのアカデミージュニアスクールを卒業したら一般企業に就職するつもりでいた。面倒なことはしなくてはならなくても危ないことはしなくてもよかったはずだった。
クインクス。喰種の器官を移植され、喰種の力で戦う捜査官。才子が施術を受けてそれになれば、かなりの額の補償金が米林家に転がり込む。借金を返せる。
とはいえクインクス施術には、いくら適性があっても危険性はあるもので……。更にクインクスになれば、喰種捜査官という危険な職業に必ず就くことになる。だけど母の耳にはそんなもの入らないようだった。
才子は、自らの意見が問われないまま進むクインクス施術の話を横に聞きながら、完全に冷えきっていた。
これでいいよね、と言われた気がして才子は顔を上げた。施術の同意書には、既にサインが記入されている。
「うん、好きにしたら」
乾いた唇からは、そんな言葉しか出なかった。
才子は、母に売られたことそれ自体にはそれほどショックを受けていなかった。元より子への愛情など思い出したように持ち出す人で、慣れてしまっていたのもあるだろう。
才子がもっともショックを受けたのは、自身から母への愛情めいたものがわからなくなってしまったことだった。
愛されるより何より、母を愛していたかったのだ。
もっとちゃんと愛したかった。それが母への未練だった。
でも、それももう、見当たらない。頭で考える分には恩義も思い出もあったが、すべてが枯れたように、凍結したように、想いが動かなくなってしまった。
以来、才子は自身に価値を感じなくなった。元気を失くした才子と、それぞれの道へ進む準備を始めた級友たちの距離は次第に開いて行き……才子は可能な限りずっと自室に籠っていた。
兄妹部屋だったはずのそこに兄の匂いがしなくなっていることに気づき、才子は兄がいなくなって初めて、一人で泣いた。
アカデミージュニアスクール卒業後は、一度クインクス施術の様子見も兼ねて才子たちの『就職』は見送られ、代わりに指導や検査を受け続けた。
そして一年が経った十九歳の春、同じようにクインクスになった者たちと一人のメンター、計五人で暮らすこととなった。力を抜いて流されるままに過ごしていた才子は、予定や規定など殆ど把握しないままメンターとの顔合わせの日を迎えた。
才子はその日、久しぶりに顔を上げる。やる気こそなくしていたが、それでも諦めたくないことがあったのだ。
それは、身近な誰かを愛すること。何を与えられなくても、ただただ、好きでいること。
幸い、不知はよく見知っていて中身もいい奴だし、あまり馴染みのない六月も親切そうだし、瓜江もひねくれてはいるが才子からすれば育ちの良さが滲み出ている。メンターの佐々木も才子たちのために心を砕くことにしているのだとすぐにわかった。
やがてシャトーと名付けられた家で、才子はひとつの大きな間違いに気づいた。
才子自身も、与えられることを諦める必要などなかったのだ。
無意識に諦めていたものをママンに与えられて、私は……才子は更に生き生きと、存分に周囲の環境を愛しはじめた。
シラギンはやっぱり単純にいい奴だし、ノリもいいし、楽しい。
むっちゃんこは気弱だけど思った通り親切だし、律儀で真面目で、たまに面白い。
班長はツンケンしているけどからかうとすぐムキになるし、とても頑張り屋だ。
ママンは厳しいときもあるけどいつも優しくて、才子が甘えられる相手でいてくれる。
……いや。共に暮らして、手を伸ばせば届いて。それだけで才子には充分だった。
ママママンもジューゾー氏もくらもっちゃんも好きだし、ブジンや鈴屋班の他の人たちとも仲良くなれそうだし……。
才子がCCGで為せることなんかはきっとない。努力をする気にもなれない。
命を取ることも、取られることも、怖いし。
でもシャトーで暮らせることは、新しい家族を愛せることは、幸せだ。
この家は、新築の香りに混じって素敵な匂いが沢山する。
ママンが淹れたコーヒーの匂い、むっちゃんがお焦げを作った目玉焼きの匂い、班長が油絵を描いたときの絵の具の匂い、シラギンがバイク弄りをしたあとの油の匂い……。
クインクスになった才子の鼻は、過敏なほどにいい匂いをキャッチしてくれる。
願わくはこの日々が、なるべく長く続きますように。
掌編。幼女キャラが抱きがちな痩せた愛情と才子ちゃん。
お母さんを想って泣いていた話が出る前に書いたやつです。