人肌は好きだ。とても気持ちがいい。
そんな感じでセックスも好きだ。
相手はそこそこクズだと気楽でいい。既婚もいい。変にのめり込まれるリスクも低いし、面倒を避ける意識から避妊は大抵しっかりしている。
という理由で関係を持っていた男がいたのだが、そうなる前に予想していたよりずっとクズで時折、驚かされていた。
「なんだお前、居たのか」
玄関を開けて、扉のすぐ横に座っていた息子に男が掛けた言葉がそれだった。
誘われるまま男の家で事に及んでしまい「他人のご家庭でやっちゃったかー」と私なりにちょっと後悔していたところにだ。
もう日も落ちていて、集合住宅の薄い壁は、手を着けば冷たかったことをよく覚えている。
男の息子は当時、小学生だった。
黄色い帽子の小さな影は何も問わず伏し目がちに「うん」とだけ答えて、私たちと入れ替わりで家に入って行った。
いくらなんでも血の気が引いた。
それが、私とあの子のファースト・コンタクトだった。
出会いとしては最悪の類だろう。
なのに暫く経ったある日、私とあの子は実質二人きりになってしまった。あの日以来家回りには近づかないよう気を遣っていたので、会うのは二度目だった。
それは外で一緒に呑んでいた男が潰れてしまい、仕方なく家まで送り届けた夜だった。
奥さんに『同僚です』と言って信じて貰えるかどうか心配していた私のピンポンに応えたのがあの子だったのだ。
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深夜の留守番に思わず事情を聞けば母親も今夜仕事と言ってどこへやらなようで、そういう日は珍しくない様子だった。
私はひとまず、泊まってけとほざく男を布団に押し込んで襖を閉める。台所兼居間に出ると、その子は小さな菓子パンの袋を開けようとしているところだった。
「こんな夜中におやつ?」
親にほっぽられる時間が多い子にありがちなちょっとした食生活の乱れ、程度の認識での質問だった。
少々小汚い気はしたが、極端に痩せているようには見えない。だから、母親がご飯は食べさせておいただろう、と。
しかしその子は首を振る。
「夜ごはん、です」
「え、まだ食べてなかったの?」
時計を見る。夜の十時半。酔い潰れるには早すぎるが、子供の晩ご飯には遅すぎる時間だ。晩ご飯だと考えると量も少ない。
声の大きさに驚いたのかその子が首を竦めて涙目になる。私は良心が痛んで明るく続けた。
「あ、いや、私もまだだった。人のこと言えないや」
大嘘だった。酒と共に充分色々食べていた。
するとその子はおどおどと手に持った菓子パンを見る。
……そうね、一個しかないね。
「冷蔵庫見ていい?」
誤魔化すように聞くと、その子はまた落ち着かなくなる。
「あ、ごめん。いいよって言われてた」
大嘘第二弾だった。まずかったら後でこっそり買い足してしまおう。そんな雑な計画だけ立てて冷蔵庫を開けると、賞味期限ギリギリアウトの焼きそばと駄目になりかけのキャベツと一部が変色して縮んだ人参が出迎えてくれた。飲み物は見るからに薄い麦茶とワンカップとビールくらいだ。
……ようし。
私は腕まくりをする。
「焼きそば作るよ。一緒に食べよう」
結局その夜、私は男の家に泊まった。
以来、私への甘えが増した男はよく酒で油断するようになった。ペースや時間の早さから奥さんの不在を察することができるくらいには。
便利な扱いをされたものだが、不満はなかった。男は住居もああで仕事も不定期だがお金自体はまああるらしく、飲食店やホテルでたかられることはない。私の希望はいつも割り勘なのだが、奢られることすらあった。
そのうち、お酒のこともあり、私は時折男の家に泊まるようになった。
つまり、あの子と顔を合わせる機会も増えたわけだ。
あの子は私が台所に立つと横に来て様子を眺めるようになった。買ってきたジュースを大事そうに飲み、私の下手な料理に頬を上気させて、控えめにがっつく。「美味しい?」と聞くと無言で食べるペースを上げる。男に手料理を振る舞ってやるより、ずっと楽しかった。
けれど本当に、たまーにしか、作らない。
不得手だし、何より……手を出すべきではないということを、私は知っていた。それは家庭の問題であるからということもあったし、私とあの子の性質に関することでもあった。
二度目の二人きりの夜のことだ。
「寂しい?」
私の主語を省いた問に、あの子は目を泳がせた。
「……わかんない」
私はなるべくそっけなく「そっか」と話を終わらせた。
この子は今、どういう生き物になるのかの分岐点に立たされているのだ。と、わかってしまった。
心に手垢をつけられたくないこちら側か、正常なる心のぬくもり中毒を患ったあちら側か。
無責任にあちら側へともつれ込むには、私とあの子の関係は不安定で、途切れやすいもので。
だから、私という存在の温度を残しすぎないように。ご飯なんて、たまーに。
たまーになら、いいかな、なんて。
それが甘かったのだということを、私は思い知ることになる。
金曜ロードショーで千と千尋の神隠しを放送した夜だった。
男との、所謂ご休憩の途中で金曜ロードショーの内容を思い出したため、完全に見逃してしまった。
私は悔しくて、ツタヤで同じ映画を借りてから男の自宅の敷居を跨いだ。
男は遅い時間からの仕事があるそうなので、一人で。
『リングを見ていたらビデオデッキが壊れた』という洒落にならないギャグみたいな理由で家でビデオを見られない(DVDは元々見られない)私に男が鍵を貸してくれたのだ。
その子がいる部屋に泊まることに、慣れてしまっていたのもある。
その夜は、正真正銘の二人きりだった。
テーブルには相変わらず焦がしてしまった焼きそば(殆ど料理をしないのでバリエーションが極端に少ないのだ)と、デザート代わりのフルーツジュース。材料もジュースもいつも通り、私が買ってきたものだ。
いつもと違うのは、襖の向こうで誰も寝ていないことと、私たちが使う椅子が隣り合って置かれていること。映画はテレビを正面にしてしっかり見たかったし、見たいときくらいちゃんと見やすい位置に座らせたかったのだ。
きしきし軋む小さな椅子も、小さなテーブルの一辺に集めればそれだけでぎゅうぎゅう詰めになった。更にそこに人が座れば、まあ、片方が子供であっても肘がぶつかる。
それがいつもより楽しいことに気づかずにいられるほど、感覚を閉じるのも得意ではなかった。
食べ終わったお皿をとりあえずテーブルの上で重ねて、流しへと運ぶのもサボって映画を見続ける。その子も退屈せずに見てくれていた。
やがてシーンは流れて、私の大好きな登場人物……ハイカラお婆ちゃんの銭婆が『一度あったことは忘れない』『思い出せないだけ』といったようなことを言う。
やっぱり格好いいなぁと思って隣を見ると、ちまちまとジュースを飲んでいたその子が、かくんと舟を漕いだ。
目をこすって頑張ってはいるが、どうしてもウトウトしてしまうようだ。
暫く後、エンドロールが流れ出して少しすると、もう限界なのか、その子は私の肩にもたれて眠ってしまった。よくこらえたものだ。いつもは早く寝る子ではないので、もしかしたら私の体温で眠くなってしまったのかもしれない。
「…………………………」
そう、人肌はとても気持ちがいいのだ。
子供の高い体温は、びっくりするくらい気持ちいい。まるで肌ごと骨ごと内臓ごと、心まで温めてしまいそうな程に。
あぁ、家に連れ帰りたいなぁ、と思う。ちょっとだけ。君と暮らせたら、と願いそうになる。ちょっとだけ。
緑のトンネルを抜けて、此岸に還る想像をしてしまう。
そして、すぐに打ち消す。
今更過ぎた。私はこっちに適応しすぎているし、この子の先だって……。
私はこれからも、他者(ひと)から与えられる形而上のものを必要とせず、また必要としないでい続けるために、ひとりで生きていくのだろう。
きっと、この子も。
ひとりで生きていく、生き物になる。
痩せた手足が伸びるにつれ、孤独を感じて泣きじゃくる夜がなくなっていったわたしのように。
だから私は泣きそうになりながら、柔らかそうな髪を、頭を撫でることができない。
いつも何度でもとは、いかないのだ。何もかも。
ならば精一杯、こちら側で生きるしかない。
私はエンドロールが終わると、そっとその子を椅子に寝かせて、立ち上がる。私の分の食器と調理器具だけは洗って拭いて仕舞う。残りは水に浸けておけば自分でやるだろう。ちゃんと、自分でやれる子なのだ。
最後にその子に、床に転がっていた上着を掛けて、寝顔を眺める。
ジッと、焼きつける。
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それが、私とあの子の最後だった。男とも何だかんだと別れを告げて、少しすると私は別のまちで暮らし始めた。
気づけば何年も何年も経っていたが、私は相変わらず私だった。
脱法の範囲で性的な職業に従事してみたこともあったが、私にとってセックスは仕事ではなく趣味だったようで水が合わずすぐにやめた。
何より、趣味でも相手には困らなかったのだ。
今は紆余曲折の末行き着いた介護施設で働いている。老老介護と揶揄される日も、それほど遠くはない。
幸い若い頃から体は丈夫だ。きっとその日まで、続けていられるだろう。
かさついた手で腕まくりをして、珍しく自分の家の台所に立つ。
料理は未だに滅多にしないし、下手なままだ。簡単なはずの焼きそばも必ず焦がす。様式美に近い。
そのせいか、たまーに、焦げたソースの匂いの向こうにあの子のことを思い出す。
たまーに。
Under my skin, my love.
なんかすごい昔の同人サイトみたいな締め方しましたが、これは薄い本にしたい話です。無配とかプレゼント的なコピ本でいいからできないかなー。一人アンソロに入れるのとかも楽しそうだなー。とか色々思っています。