詰んでれ

 池袋でもなく、新宿でもないその場所で、臨也は入院生活を送っていた。
 リハビリ生活も半ば、内心はともかく、今の臨也の周囲――愛海や黄根との関係に、特に変化はなかった。
 黄根は理由こそ語らないが、掛かった費用+諸々を受け取ってからも、半分知人として半分便利屋としてその地に留まっていた。愛海など嫌がらせに精を出せるお陰か以前より元気に病室に通いつめていた。
「……で、何してんだ、お前ら」
 臨也が入院している一人部屋の入口立った黄根は着替えを小脇に抱えて呆れた声で問う。
「……っ、むぐっ。もごm……むぅ……」
 愛海が手で口を隠しながらも何か釈明しようとしているのは誰の目にも明らかなのだが、如何せん、多少の付き合いがある黄根でも何を言っているのかさっぱりわからない。
 そんな愛海の背を優しくとんとん叩きながら臨也は笑う。
「あはは、愛海ちゃん、それじゃ何言ってるのか全然伝わってないよ。がんばれがんばれ」
 そしてその笑顔は愛海に見舞われた所謂“腹パン”で悶絶に変わる。
「―――ーっ、…………ー!」
 声にならない声を上げる臨也と必死で口の中のものを飲み込もうとする愛海に黄根はもう一度問う。
「何してんだお前ら……」
 今の臨也と愛海は喧嘩するほど仲のいい何かにしか見えないし、先ほどなど臨也が愛海に世間でいう“あーん”を慣行していたのだから。

「ちょっと言葉巧みに乗せられて……鼻つままれたから口開けたらそのまま……」
 臨也と愛海と、何故か黄根まで巻き込まれて仲良く看護師にこってり絞られた後、愛海が控えめに言い訳しだす。
 黄根は一瞬何のことかと思ったが、すぐに世に言う“あーん”のことであると気づいた。そこですかさず臨也が横槍を入れる。
「いやぁほんと可愛いよねこの子」
 馴れ馴れしく頭を撫でてくる臨也に愛海は内心(私初登場時二十代中頃だったからアンタより年上か同い年ぐらいのはずなんだけどでもいつのまにか少女扱いされてるからつっこむにつっこめない……)とメタ的歯軋りをかましていたが、この文章表現に原作者は一切関わりがないため空しく消えた。その代わりに彼女は臨也の手を思いっきり引っ叩き落とす。
 ――それにしても、気が緩んでいた。
 ここ最近の愛海は、わざと失敗したクッキーを持ち込んで水を飲ませず口の中パッサパサにしてみたり、病院食に『色々と工夫』した調味料を混ぜてみたりといった地味な嫌がらせをしながら、どうやったら臨也を心から傷つけられるだろうかと考えていた。
 愛海は原因に思いを巡らせて、考え事が過ぎたのだろうと結論付ける。
「そういうことなので」
 無理矢理話をまとめようとしても余計に間抜けだと、愛海は気づいているのだろうか。ともかく、黄根は「わかったよ」と適当に頷いて、立ち上がる。
「じゃあ、着替えは持ってきたからな。俺は今日は帰るわ」
「ありがとうございますー」
 臨也はドアの向こうに消えていく背中に、ひらひらと手を振って見送った。
 ドアが閉まると、臨也は立ち上がろうとする愛海の手首を掴んで、そのままの笑顔で言う。
「そういえば、僕そろそろ五人部屋に移動だってさ。一人部屋の空きの問題で」
「だから何?」
 この世で最も嫌いな人間に笑顔を向けられた不快感でそれなりに顔を歪ませながら愛海が返すと、臨也は更ににっこり笑って見せる。
「なぁに、一人部屋じゃないとできない嫌がらせもあるじゃないか。今のうちにやっておけば? ってアドバイスをしてあげようと思ってね」
 愛海は大きなため息を吐いて、臨也の手を振りほどこうとする。が、臨也は離さない。
「ちょっと、」
 抗議の言葉は人差し指一本に遮られ、勢いをなくす。
 臨也はすぐに指を唇から離して、愛海との会話に戻る。
「もうひとついいことを教えてあげるよ。俺が一番嫌がることさ」
「信用できないね」
「俺だって人間だよ? 気まぐれくらい起こすさ」
「……じゃあ、聞くだけ聞いてあげるからさっさと話しなよ」
 その言葉を聞くと、臨也はふっと表情を消して、視線を窓の外に逃がした。そして、噛み締めるようにゆっくりと口にする。
「君が、会う度じわじわ化け物になっていくこと。それを止められないこと」
 愛海は一瞬息を呑むが、そんな自分自身に気づいて頭を切り替える。
「バッッッカじゃないの。そもそも、人間ならわざわざ私である必要はないじゃない」
 臨也はただ何も言わずに微笑む。
「…………」
 愛海は胸のあたりにもやもやとした疑問や違和感を感じて、でも何も言葉にすることはできずに目を逸らした。
「手、離して」
「嫌だと言ったら?」
 その一言で臨也の言動が普段と――以前と違うことにやっと気づいて、愛海は彼の顔を二度見する。
「……何を言ってるの?」
 視線が絡んで、そのまま絡まってほどけなくなるのを如実に感じながら、愛海はある一つの可能性に辿り着いてほんの少しだけ余裕を取り戻すと、皮肉な笑顔を浮かべた。
「ああ、そういう。あなたみたいな人間でも本能の気紛れを起こすものなんだね。でもそれ、多分勘違いだよ」
 臨也はそんな愛海を笑って、掴んだままだった手を引いて自分の上に倒すとそのまま引き寄せ、しかしギリギリの距離で唇を触れ合わせない。
「……こういう風にしてそのままキスするような『好き』は、生憎向けてないんだ。女として好きなわけじゃないさ」
 実は若干ブラフが含まれてはいたが、そんなことは二人にとってどうでもいいことだった。
 ピントを合わせるのにも一苦労する距離だ。臨也には、愛海が唾を飲み込む音さえ聞こえている。彼女の慌てて乱れた呼吸を肌で感じられる。
「……っ、じゃあ、ほら、ヤりたいだけとか」
 苦し紛れの言い訳を笑い飛ばして、臨也はあの夜のように愛海を抱き寄せると、耳元に口を寄せて、小さな声で澱みなく語る。
「さっきから僕は人間愛の話しかしてないよ。そもそも君、タイプじゃないし」
 愛海は「じゃあ、」と自分の発言を挟もうとするが、臨也は言葉を止めない。
「でも人間として一番好きだ」
 そうして体を離すことを少しだけ許して、また愛海の目を見つめる。
「愛してる」
 ミーハーな面食いの女性であれば黄色い声を上げそうな告白だったが、言われた当人は鳥肌が立つのを止められずに、苦し紛れの言葉を吐き出す。
「……じゃ、じゃあ、お望み通り化け物になってあげるよ」
 当然ながら、愛海には方法にあてもない。あるとしたら臨也の方だった。彼はといえばその言葉に、掠れて消えそうな微笑みを浮かべる。
「残念。実際は全力で阻止するよ。化け物に助けを求めてでもなんでもするさ。俺自身が化け物になってもいい」
 その笑顔も、声も、あくまでも儚く、優しげだ。しかし愛海の腕を掴むその手には少々熱がこもりすぎていて、それが臨也の本気を表出させていた。
 愛海は浅い呼吸を繰り返して、振り解けない手に掴まれていない方の手で爪を立てる。震えを押さえきれなかったのか、かち、と一度歯が当たる音がした。
「好きだよ愛海」
 たとえどれだけ恐怖しようと愛海が逃げ出さないことを、臨也はよく知っていた。自分への憎悪と執着はそんなものではないと、確信さえしている。
 目が覚めたばかりの頃、臨也は愛海の反応を見ようと元彼に接触させたことがあった。なんでもない顔で道を尋ねるようにある筋から『お願い』したのだ。
 そのとき愛海はこう言ったそうだ。
「それならあっちの方をずーっと行って、突き当たったら左だよ。あ、途中滑るところあるから気をつけてね、お兄さん」
 元彼の方が驚くくらいに、彼女は何も覚えていなかったのだ。
 ――この子はきっとあの夜騙されたとき、それまでの自分とさよならして、俺への憎悪以外のほとんどをなくしちゃったんだろうなぁ。
 愛海の歯がかちかちと連続して鳴るようになっても、臨也は離してやろうなどとは思わない。
「好きだよ」
 逆にあやすように背中を叩いて、ゆっくりと体を揺らす。
「……………………死ねばいいのに」
 やっとの思いで絞り出した愛海の言葉は、西日に溶かされてしまったのか、臨也の心には届かない。
 彼の心の中には、愛海を特別に思うようになった日のことだけが浮かんでいた。


 臨也が目を覚ましたのは、池袋の一件から数ヶ月後だった。
 体はあまり痛まない代わりにかなり動かしづらく、視界もかなり不明瞭。臨也のまだ回らない頭でも、相当眠ってしまっていたことがわかった。
「…………ぁ」
 からからの喉から声を出すのを諦めると、臨也はナースコールを探して、そこではじめて違和感に気づいた。
 臨也のすぐそばには、愛海の寝顔があったのだ。
 すやすや眠っている彼女が前より余程痩せていることに気づいて、臨也はかなり無理を押して手を伸ばした。
 ――復讐に、首の投げ込みに、救助に……君は何度も僕の想像を超えてくれたね。
 疲れてパサついた黒髪は、陽光の熱を吸収してあたたかい。
 臨也にとって、人間を平等に愛するということはそのまま愛情であり、もしかしたら怯えでもあり、様々な感情が絡まり合ってもいたが……ずっと続けてきた彼にとってそれは、矜持でもあった。
 無論臨也なりに友人に気を許してみたり、妹に手を焼いたりすることはあったが、自覚の上で、“愛”という感情を偏らせることはなかった。
「……」
 ――そのはずだったよなぁ?
 想いをどれ一つ声に変えないまま、臨也は内心首を傾げる。
 そしてすぐに思い直す。
 ――いや、それを覆すほどのポテンシャルを秘めているのも人間だったという訳か。つくづく俺は人間をナメてたわけだ。

 そうしてあっさり、折原臨也にとっての間宮愛海は『最も人間として愛する相手』になったのだ。


 病室のベッドの上、臨也の愛の言葉を聞きながら愛海は必死に考える。どうしたらいいのか、どうしたらこの状況を脱却できるのかと。
 けれどそれは無駄なことでしかない。
 何故なら間宮愛海の人生は、臨也が目を覚ました日、自身が居眠りをしている間に――――

 密かに“詰んで”いたのだから。

50000ツイート記念ということでリクをいただき、2015年に書いたやつです五年前!!?!?
書いたときは『折原臨也と夕焼けを』すらまだ出てなかったんスよ……(愛海ちゃん出ないからって買うの後回しにしてそのままになったなあの本)。
タイトルは今つけましたが詰んでるだけであんまりデレてないね☆

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