鋭利なものはへし折る方向で。

 最近、甲斐抄子の様子がおかしい。
 甲斐抄子が嫌いなバカ(って言うと甲斐抄子の小説が嫌いなのがバカみたいだが)も心配する素振りを見せたくらいだ。
 これといって変わったところはないはずの壁に思い切りぶつかったり、本棚の本を取ろうとして十冊くらい頭から被ったりしている。それに、なんだか常にぼーっとしているようだった。
 本人に直接訊くといつものような態度で、
「何を言ってるかわかりませんが、私はなんともないですよ」
 と言われてしまった。
 丁度饅頭で餌付けしていていつものベンチに隣合って座っていたので手を伸ばして熱を測ってみたが、平熱……は、わからないがとにかく高熱ではなかった。睨まれたのは、予想の範疇。
 そんな状態が一週間ほど続いた後、甲斐抄子が腐りかけの饅頭を用意して僕を待ち伏せていた。
「報酬です」
「要らん」
 それが好きなのはきみだ。
「ボケたんです」
 嘘か本当かわからないことをさらっと宣い、甲斐抄子は手招いた。
「ちょっと来てください」
 すたすた風を切って歩く甲斐抄子の後ろを、僕は普通に歩いてついて行く。
 何故だかふと、女の子だなぁという思いが過ぎった。コンパスの違いを今初めて意識したからだろうか。首を傾げながらそのままついて行く。何故だか、黙ってついて行く気になった。
 そして結局、甲斐抄子の居住区まで連れて来られてしまった。
 折り入った話しだそうだし、初めてでもないので普通にお邪魔する。相変わらず妙なところが几帳面で、でも整理整頓が行き届いているという程でもない部屋だ。最初は「学生身分でいいとこ住みやがって」と僻んだものだけど、今は割とどうでもいい。慣れた。
 暇なのでつい視線を泳がす。この部屋の印象はカーテンを変えても変わらない。そして熊のぬいぐるみが並べられている箇所が、いつも、几帳面だ。
 とす、とす、とスリッパで歩行する足音の後に、リンゴジュースの入ったコップが二つ運ばれてくる。
 それらをテーブルに置いて僕と向かい合って座った甲斐抄子は、無意味に両手でコップに触れながら口を開いた。
「師匠から弟子に問題を出します。友達が、面白くない小説が気になると言うんですが、どういうことだと思いますか」
「なんだその設問」
 本気で意味がよくわからなかった。
 ……うぅん。何だその回答はとぶった切られる覚悟を決めて、僕なりの答えをいくつか捻り出して晒す。
「何か役立つとか、『面白い』って形容には合わないような魅力があるとか? 鬱になるようなのとかさ」
 目の前の甲斐抄子は視線をリンゴジュースに落としている。いや、目の焦点が合ってない。やはり、最近の甲斐抄子はぼーっとしている。
 暫く間が空いてから、師匠は弟子の前提に訂正を入れる。
「いえ、本当に、時間返せってくらいのものなんです。役にも立ちませんし……。技術がつたなくても魅力があれば設問にならないじゃないですか」
 最後の一言を言う頃にはちょっとふんぞり返っていた。
 そして直後にリンゴジュースを煽って盛大に噎せた。
「あーあー」
 咄嗟にいつもの場所に鎮座しているティッシュの箱をひっつかんだ。四つん這いで甲斐抄子のところへ行って、吹き出したリンゴジュースを拭く。
 本人が絨毯とテーブル(いや後回しにしろよ)を中心に拭こうとするので制した。そこは僕がやった方が効率いい。
「きみは服を拭く」
「ダジャレですか?」
 うっせ。口元とかわしわしするぞ。ムツゴロウさん的に。


「現物は?」
「はい?」
「いや、だからその小説は?」
「ああ」
 リンゴジュースを片付けている間に本題が流れそうになっていた。普段の甲斐抄子ならあり得ない体たらくだ。やはり、おかしい。
 そして僕の要望により甲斐抄子が寝室から取ってきたのは、予想外に薄っぺらい本だった。
「なんだこれ」
「友達のお土産です。即売会で買ってきたと言っていました。ともかく、出せと言ったからには読んで回答を聞かせてください」
「へい」
 適当な返事をして本を開く。体裁は整っているが、市販のものとはパッと見でもどこか違う。そんなところに着目しても仕方ないので、小説を一先ず読み終わる。
 ふむ、確かに、面白くない。甲斐抄子の好み、求める文章レベル、色々考えてみても確かに、「時間返せ」だ。しかし、
「確かに面白くないけど、きみの友達からすれば面白いんじゃないのか?」
 とりあえず、そこをまず指摘してみる。
 一つ、可能性も浮かんできてたが、一応本人の主張と食い違うので言及を避けた。
「それはありません。友達も面白くないと言っていたので」
 甲斐抄子は、即答した。………………ええい、これは可能性の方に言及せざるをえない。
「正直に答えてくれ。友達じゃなく、きみ自身の話しじゃないのか?」
「…………」
「……おーい」
「…………よくわかりましたね」
 たっぷり十秒は黙ったあとにキッパリとした返事を頂戴した。
 あまりにもテンプレな相談の持ち掛け方だったので、お互い気まずいものがあるかもしれない。
「本当に、参ってるんです。面白くないのにこの作者の、明らかに水準以下の作品を漁ったりふと思い出したりしてるんです。腹立たしい。ああ腹立たしいっ」
 憤慨している甲斐抄子は、なんというか、とても楽しそうで、嬉しそうだった。
 こんな顔もするのか。
 僕は色恋に縁がある生活を送ったことは絶無と言ってもいいほどだ。それでも直感が既に答えを告げていた。
 それに、最近の挙動不振さとも辻褄が合う。ただ、それを口に出していいかどうかは、わからなかった。
「ごめん。力不足だ」
 情けなくも引き下がった僕を出題者として批判することもなく、甲斐抄子は
「そうですか」
 とだけ呟いた。
 少しだけ寂しげだった。もしかしたら、本人もどこかで答えを知っているのかもしれない。知らなくて不安なのかもしれない。


 一週間後、何度か饅頭を食べさせたベンチに座っている甲斐抄子と行き会った。
「おっす」
 僕が妙なノリの挨拶を後悔しだすより先に、甲斐抄子が口を開いた。
「面白くない人につまらないとか嫌いだとかぼろくそ言われました」
 そういえばこの間の薄い小説の奥付にブログらしきURLが書いてあったと思い出す。
「つまらないならつまらないでいいはずなのですが腹が立ちます。嫌いってなんですか。それも作者ごと全部嫌いだなんて、腹立たしいです」
 独り言のように、丁度僕の膝辺りを見るような視線の角度のまま、甲斐抄子は捲し立てた。
 僕はというと、なんとなく合点がいっていた。
 甲斐抄子はいつか、『作家が他人の本を批判すると怒られる』ことについて憤慨していた。つまり、書き手をしながら批判もするような作者の雰囲気というか、そういうのも小説に滲み出てたんじゃないか、とか……。アマチュアだから特にそんなに怒られはしないだろうしごろごろ居るだろうが。それでも一つの、引っかかりを覚えさせた要素のような気がした。
「くっ……私の全裸を……」
 そこでまた全裸かよ。とは、つっこまない。
 一瞬、「だったら見返せるようなものを書けばいいじゃないか」と言いそうになったが、今回の場合それは多分、違うだろう。見返すものを書いても、その人に読まれるかはわからない。
 そして、多分この甲斐抄子の言い様からして、単にそれが面白くなかったのではなく、『甲斐抄子』が嫌い、そう判定されたのだろう。
 ダイエットや筋トレはともかく、メスや注射針まで入れてしまうことになったら……。
 だから、僕と甲斐抄子におあつらえ向きの突き放し気味の言葉は、飲み込んでしまった。代わりに、僕はハッキリと自覚されることのなかった感情を慰めるような、ありがちな言葉を吐く。
「きみの全裸は魅力的です。少なくとも僕にとってはそうだよ。……ちょっと悔しいけどな」
 最後の方は本気の僻みが入ってきたので小声で言った。
 甲斐抄子は突っ立ったままの僕を見上げた。目を丸くして、僅かに首をかしげる。仕種と表情と髪の流れが、見慣れた顔つきより優先されて目に入る。
 ああ、女の子だなぁ、と、呑気に思った。
「何を当たり前のことを」
 ああ、甲斐抄子だなぁ、と、呑気に思えた。
「当たり前のことでも偶には言ってみるもんなんだよ」
 誤魔化すように言う。あまり鮮明に意図が通じても照れくさい。
 甲斐抄子は何かを意に介さないように、視線を水平にしてから、「なるほど」と口の中で発音した。
 それから、
「では、弟子からのファンレターだと思って有難く受け取っておきます」
 横断歩道の向こう側から叫んだときに似た顔で、とても楽しそうに笑った。ただ多少はあの日より湿っている。
 すぐに本調子には戻らないだろうけど、心配ない。僕らは常にこうして全裸でやって行って、ふとした瞬間誤魔化しのきかない事実にぶち当たる。それは、日常の一部だ。
「あなたの全裸も、そう悪くはないって、言っておいてあげます」
 そりゃ、有難い。


 後日、バカカップルの噂が立った。
 周囲にまったく注意を払っていなかったせいだった。僕までぼーっとしてどうするんだ。そして甲斐抄子にまた饅頭を徴収された。食いかけまで奪われた。
「全裸が魅力的だとか言いあう仲ってことは、つまり実は最初のナンパ作戦は成功してたのかぁ。感慨深いな」
「違うわバカ。っつーかお前は全裸の意味知ってるだろ」
 相変わらず僕らは全裸で、バカはバカで、どいつもこいつもバカばっかりだった。

 似非なのは仕様。
 師匠と弟子がナチュラルにいちゃついてたらいいなって思って書いた。弟子と師匠がナチュラルに世話焼く/焼かれる関係だったら萌えるなって思って書いた。反省も後悔もしてないアル。

 最初はTwitterで下書きなしで書きました。結構改稿したかも。。

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