葬儀の後で

 異性の背中にドキリとしたのは初めてだった。
 元々私は可愛いものや可愛い人が大好きで、背を追うとしたら、ハイル姉様の華奢な背中だったから。



「お、シャオ。丁度よかった。背中に塩掛けてくれよ」
 髯丸は、シャトーに帰着した私を見つけると、そう言って少しの塩が入った小袋を渡してきた。
 玄関先で何をしているのか。袋は受け取るものの、ピンと来ない。
「なんだ、これ」
 言いながら塩をつまんで、言われるまま黒い背広の肩辺りに落としてみる。
 髯丸は首を捻り、私の方を向いて言う。
「ああ、シャオはわかんねえか。日本じゃ葬式のあと、家に入る前に体を塩で清めるんだよ。もっとばばっと掛けていいぜ」
「そうか」
 私が納得して残りの塩を手に取り、二回に分けて掛けてやる間に髯丸は付け足す。
「……って言っても最近こういう風習も減ってるらしいけどな」
 私は返事の必要性を感じなかったため何も言わず、背中に残った塩を払う。
 珍しく寡黙な髯丸に付き従うように、私は口を閉じたまま靴を脱いで二階のリビングへと上がっていく。
 髯丸は他に誰もいないソファーにだらり沈み込む。私も上着を脱いでから、少し距離を取って座った。
「あぁー……」
 渦巻いているものが言葉に変わらないことを嘆くように、髯丸は長く、声を交えて嘆息した。
 私は安浦のように優しく声をかける気にはならない。代わりに普段通り、思ったことを伝える。
「背広くらい脱いだらどうだ」
 髯丸は私の言葉に反応して体を起こすと、今度は前傾姿勢に落ち込んでネクタイを緩める。
 それからややあって、もぞもぞと背広を脱いだ。
「……こんなにちゃんとした葬式、久々に出席したな」
 いつものような話し方で、髯丸は呟く。
「…………そうか」
 CCGの合同葬儀は略式だ。もしかしたら、単純に慣れない儀式に疲れたのもあるのかもしれない。
「うん、キツい。キツいわ」
 普通のトーンに涙が混ざったような声で髯丸はそうこぼす。そして笑ってこちらを向いて、続ける。
「誰も俺のこと責めないんだよな。傍に居たの、俺なのに」
 はーぁと溜め息をついて目に浮かんだ涙をさり気なくこする髯丸に、少しだけ距離を詰めた。私はその横顔を覗き込んで感心する。
 つらいときにただただつらいのだと認められるのは、人としての柔軟な強さだ。
「叔父さんとは、関わり深かったのか?」
 私が話題をそっとつつくと、髯丸は鼻をすすって暫く置いて、湿り気を少し減らした声で応える。
「そう、だな……しょっちゅうではないけど遊んで貰っていたし、釣りを教えて貰ったり……お年玉も昔は毎年貰った。夏休みの自由研究で仕事のこと聞いたときもあった」
「そうか」
 私の相槌に、髯丸は泣きそうな顔で笑う。
「そうなんだ。叔父さんは市民の命を守っていつも、どうしようもない現象と戦って……」
「そうだな。お前の叔父さんなら、そういうの、想像つくよ」
 喉が詰まったのを察して私が言葉を引き継ぐと、髯丸は少しだけ胸を張る。
「だろ」
 私は何故かふと、ハイル姉様を喪ったときの痛みを甦らせる。
 私が守れなかった、愛しい笑顔。彼女に教わったこと、思い出。共有していた運命。
 ハイル姉様の生き方を人に誇ることは、きっとない。彼女を突き動かしていた切実なものは、髯丸の叔父さんを突き動かしていたものとは違って人に言うようなものではないからだ。
 それでも私はハイル姉様の背を追って、こうして生きている。
 矛盾に身を置いて白日庭の外で戦う道を開いたのは有馬さんだが、私がここにいるのは、彼女を追いかけてのことなのだ。
「何でお前が泣きそうなんだよ」
 横から掛けられた声にハッとして顔を上げる。
「……なんでもない」
 笑っている髯丸の顔にちょっとイラッとして、そんな自分を恥じて、私は少しだけ白状する。
「ハイル姉様のことを思い出していただけだ」
 髯丸は、あー……と遠い目をして膝に肘をつく。
「シャオの大切な人だったな」
「ああ」
 今はそれ以上ハイル姉様のことを話すつもりはないから、私は首を振りながら食い気味に短い返事をする。
「……つらいな」
 髯丸がまた感情を認める言葉を吐いて、私はそれに便乗する。
「…………ああ。つらいな」
 口にしながら、どんなに無事に生き抜いても早いうちにいなくなる自分のことを思う。この優秀な癖にバカな仲間は、私が去ったときもこうして素直につらいと口にするのだろうか。
「あー!」
 煩い男は唐突に大声を出して、立ち上がり伸びをする。
 そして見上げている私の方に振り向いて、明るく提案する。
「ぅよっし! トレーニングでもするかシャオ!」
 私はすっと立ち上がって言う。
「そうだな。もっと喰種を駆逐……」
 それは途中で「いや」と遮られた。
「ああ、それも合ってるけど。もっと人を守れるようにって。そっちを目標にするぜ、俺は」
 親指で自分を指差して、若干ウザいくらいに元気に、髯丸トウマは宣言した。
 純粋な正義感で捜査官になったこの男は、身内を喪っても、喰種への憎悪を口にしない。少なくとも口にはしない。
 私の血肉の半分……いや、赫包を得てからはきっともっと多くを占める種は、肯定されることもないが全否定されることもない。
 まっすぐに前を見ている。才子さんとトウマは、いつも少しだけ眩しい。
 私はふっと笑って、元気にリビングを出ていくトウマに続く。今日は沢山負かそう。
「あ」
 と、リビングを出ていく途中のトウマが立ち止まって、考えてばかりだった私はその背中に一歩肉薄する。
 体温が感じられる距離の後頭部の匂い。私はトウマの背を手で押さえるようにしながら一歩引いて距離を取る。
 シャツの上から触れた背中に、何故だかドキリとする。
 私より少し高い体温が、空を掻いて下りる指先に数秒残る。
「いけね、上着忘れるところだった」
 何も思っていない様子のトウマが私の横を抜けてリビングに戻っていく。
 思い出すのは、先程塩を払ったときの背広の大きさだ。私と同身長で、体重もたかだか一キロそこらしか違わないのに、少しばかり広い背中だ。
 私は何となく口惜しくて、さっさとトレーニング着に着替えようと三階の自室へと向かってしまう。
 後ろから不満げな声が聞こえたが、当然無視をした。

 掌編。ちょっとドキっとする程度のヒゲシャオ。ヒゲ←シャオの萌芽。

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