昼下がり

 某月某日。くもり。自由時間を言い渡され、私はノストラード邸の廊下を歩いていた。
 さて、与えられた部屋で休もうか、屋敷の庭に出てフルートでも吹こうか。何にせよ休日ではない。すぐに戻れる場所にいなければならない。却って暇潰しに困るほどだった。
 私たちに、休日は与えられていない。雇用契約を続行したのが自分自身の判断とはいえ、少しの疲れは感じる。
「……?」
 そこに少し珍しい物音が聞こえて、私はそちらに目を遣る。
「センリツさん、ちょっといい?」
 予想通り、小走りでやってきた前ボス――ネオンお嬢様が曲がりかどから姿を現し、私に声を掛けてきた。
 頬の真新しい痣を気にも留めていないお嬢様は、毎日ワガママを言い癇癪を起していた頃とは似つかない穏やかな顔つきと心音をしている。
「もしよかったらなんだけどね、お茶の相手をしてほしいなって」
「いいですよ」
 遠慮がちで不安そうなお嬢様に微笑んでみせると、彼女はぱっと明るくなる。
「よかった! じゃあ私紅茶入れてきまーす」
「いいですよお嬢様。私が入れますから」
 私は小さく手を振って答える。水を差すようではあるが立場もあるのだ。
「えー、でもでもぉ、センリツさん今休憩とかじゃないの?」
 だけど、ワガママお嬢様時代を思わせる言い方につい笑ってしまう。これは私の負けだ。
「……そうねぇ」
 目の前の少女は休憩や休日の私たちが仕事中のような態度を取ることについて、あまり嬉しく思っていないことを、私は知っている。
「わかったわ。じゃあ、あの部屋でピアノを弾いて待っていていいかしら?」
 自由時間とはいえ休憩と呼べるほど上等なものではないことは、黙っておこうと思った。
「やったぁー。私ね、センリツさんの演奏大好き」
「あ、ネオンちゃん、廊下を走っちゃダメよ」
 私の注意も聞かずに、ネオンはキッチンの方へ駆けていく。
 実年齢より幼い態度とは裏腹に、彼女の心音には小さく偽証の音色が混ざっていた。
 けれど心音なんか聞かずともそれは知っている。本当は音楽なんて難しくてよくわからないと、以前彼女自身が口にしてしまっていたのだから。


 少女の拙い嘘に乗る形でピアノを弾いて待っていると、音色に誘われるようにクラピカが現れた。
 あの一件以来一層心を閉ざしてしまった彼は、今は殆ど駄目になってしまったライト氏を補佐している。ボスが交代するかクラピカがここを離れていくか……そんな終わりがやってくるのも時間の問題だろう。
「…………」
 心音から伝わってくるものも、あまり思わしいものではない。それはここのところという意味だけでなく、今この瞬間という意味でも。
 クラピカは、自身に音に誘われるような情緒が残っていることを恨めしく思っているのだろう。
 私は黙って、弾いている曲のトーンをさりげなく落とす。沈んでいるときにいたずらに明るい音を奏でられることほどつらいことはこの世にない。
 クラピカは諦めたように息をついて態度を緩めた。
 ――――――あなたにはかなわないな。
 そう、自嘲と安堵が混じった心音が奏でていた。
 けれどその穏やかさも束の間、近づいてくる足音に気づくと、彼は軽く目礼して逃げるように部屋を出て行った。元々、そう時間があったわけではないのだろう。私もその背中を、演奏だけで見送った。
 そのあとはすぐに、近づいてきた足音の主、ネオンがお盆を持って部屋に入ってきた。
「おまたせ」
 湯気の立つ香りに、自然と頬が緩む。
 私は演奏を終え、彼女が用意する席についた。


「不味くない? ほんっとに不味くない?」
「私は元々味なんて気にする方じゃないけど、不味くはないと思うわよ?」
 最初の何口かを口にする間、しきりに味を気にするネオンと大雑把な私はそんな会話をしていた。
「……そっかー。でもエリザと比べちゃうと全っ然美味しくできてないんだ。ううん、それどころか他の人たちと比べたって……」
「彼女たちはプロよ? 私だって比べられたくないわ」
 軽く落ち込みを見せるネオンにそう微笑みかけると、やっと楽しそうな様子に戻る。
「それもそうでしたっ」
 舌をぺろっと出して無邪気に笑う姿もまるで普通の女の子で、なんだか可愛く思えてしまう。ヨークシンで買い物に付き合わされてへとへとだったときのことが、遠い過去のように感じられる。
 それだけに、頬の痛々しさが目についた。
「ネオンちゃん、それ、痛くないの……?」
 私が頬を指して訊ねるが、ネオンは至って落ち着いたまま答える。
「結構痛いなぁ。でもパパ最近私に嘘つかないから、それは嬉しい」
 心音からしても、それは本心のようだった。
 いや、寧ろ……そんな言葉では足りてないほどに、とてもとても、嬉しいようだった。
 今思えばヨークシンでのワガママや癇癪も、道具として厳重に扱われることへの反発や嘘ばかりつく父親への反抗でもあったのだろう。
「少し治そうか?」
 女の子なんだし、顔は……と、そう訊くと今度は慌てて否定された。
「ダメダメ。すぐ治ってたらパパ可哀想。それにバショウさんの一撃ほど痛くなかったもん」
 何気ない一言に私は苦笑しながら、少し前のことを思い出す。

 ――あのとき、仕事が手につかなくなるほどの動揺を見せたエリザのためにと、ネオンなりに考えたのだろう。彼女は、スクワラの頭部を剥製にしたらどうかと言い出した。そして堪忍袋の緒が切れたバショウにかなり手加減された平手一発を食らい、お説教されたのだ。
 (まだネオンお嬢様がボスのままだったのもあり、どうなることかと思ったけれど)
 その途中、バショウが元リーダーの死への無反応について触れる発言をすると、ずっと黙って……いや、周囲を黙らせてでも話を聞いていたネオンは声を上げた。
「だってダルツォルネさんが言ったんだもん! いちいち護衛が死んだことなんか気にするなって、いつも言ってたもん!」
 そこまで言うやおいおい泣き出したネオンに、私たち護衛チームの生き残りは何も言えなくなってしまった。クラピカは、元々何も言いたくなかったのだろうけれど。
 元々彼女につく役職である侍女だけが、ネオンを宥めに動いていた。

 後日、結局故郷へ帰ることになったエリザの手には無難な花が渡された。
 そしてネオンの手には元護衛チームリーダーの手首が収まっていた。昔は頭を撫でてもらったこともあったのよ、と。
 しばし記憶にぼんやりしたままカップを傾けていると、ネオンはふいに静かに、指を組んでこちらを窺う。
「……センリツさんってさ、恋話とかする方?」
 語りたいと逸る心音に微笑ましさを感じながら、私自身のことについては首を振る。
「私は……こんな姿だし、浮いた話もないから……」
「そうかなぁ。クラピカなんかもう、私は誰にも心を許しませんーって感じなのにセンリツさんとはちょっと違うし、好かれる方ならすごく多そうなのに」
「あんまり変なことを言うとクラピカが可哀想よ」
 少女の欲求が脱線したところで再度やんわり否定してみせると、彼女もしぶしぶ引き下がる。
 だから私は紅茶で口を湿らせて、ネオンに聞き返してみる。
「それよりあなたは? 何かあるんじゃないの?」
 するとネオンは微かに頬を染めて、無自覚な淡い恋の音色と共に小さく語り出す。
「オークションの日、私を会場に潜り込ませてくれた人……男の人なんだけどね、占ってあげたら……泣いちゃったの。目の前で」
 いじらしくも目を伏せて、無意識に指同士を遊ばせながら彼女は続ける。
「死者の鎮魂を思わせる部分があったって言ってたから、多分そこで泣いたんだと思うんだけどね……私、男の人が泣くの、初めて見ちゃったんだ」
 初めて? と私が疑問を抱くそばから、彼女の口から答えが溢れ出す。
「ママが死んだときも誰も泣かなかったし、人が死んだくらいじゃ……特に大人の男の人って、泣かないんだと思ってたわ」
 何度か触れる機会のあったネオンの死への麻痺は、もしかしたらそんな出来事の積み重ねから生まれたものだったのかもしれない。
 私は言葉を選んで、その男へのコメントだけを返す。
「……そうなの。きっと、それだけその人との時間を大切にしていたのね」
 ネオンは頷いて、滑らかな声色で続ける。
「その人は死後の世界を信じてるって言ってたから、そういう意味でも何か感じるものがあったのかも……」
「そうなの」
 私が静かに相槌を打つと、ネオンはふいに少し身を乗り出してくる。
「ねぇねぇ、センリツさんは死後の世界ってあると思う?」
「そうねぇ、私は、死後の世界ってあったら素敵だと思うわ」
 私は死んでしまった友人を想うときのことを省みて答える。恐らく無意識に、私はそれを信じていた。
 ネオンは紅茶を一口飲んでから、自分の考えを改めて口に出す。
「そうなんだー。私はずっとないって思ってるの。尊敬してる占い師もそう言ってたし」
 もうテレビに出てないけどね。そう付け足して、彼女は何かを思い出してクスリと笑った。
「でも、またあの人に会いたいなぁ……。私が占いできなくなったのって、あの人のせいなんじゃないかと思うの。ドキドキしちゃったせいで盗まれちゃったのかも……なんてね」
 照れくささに擽られたようなメロディと、染まった頬……事情さえ知らなければ、どれだけ微笑ましかったろう。
「パパが私に嘘つかなくなったのは嬉しいけど、このままだとうちは潰れちゃうわ。返してもらわなきゃ」
 そう話す彼女からは、諦念と呑気がよくよく伝わってきた。ネオンはもうほとんど諦めていて、自分の無力も知っているのだろう。
 私は次の話題に逸れるまでの間、この恐ろしく嘘に聡い少女に、曖昧な笑みを返すことしかできなかった。


「今日はありがと、センリツさん」
 自由時間を終えて部屋を去る私に、ネオンは小さく手を振った。
「いいえ、私なんかでよかったらまた誘ってくださいね」
 私がそう返すと、ネオンお嬢様は嬉しそうに鳴らして笑った。
 遠ざかる彼女の音が、スクワラの犬の里親探しに戻るのを耳にしながら、私は思い出す。
 小さなお茶会の途中、魔が差したのか、私は問うた。
「もし、自分がほしいパーツの持ち主が、生きてそこに居たらどうする?」
 するとネオンは目を丸くして、少し考えてから本心で答えた。
「レア物とかだったら……それで取っていいよってとこだったら、交渉して、頂戴ってお願いするかも」
 目とか心臓とかは流石に悪いし。そう続けて、彼女はコテンと可愛らしく頬杖をついた。
「体はキレイに取っておけば死んでもずっと残るのよ。それが何より素敵なの」
 細められた瞳の湧き水のようなきらめきと、夢見るような心音。その光景は、しばらく、忘れられないような気がした。

 くもり空に、晴れ間はまだ見えない。

 割とネオンちゃん真剣に考察したり、ちょっと夢見てみたりセンリツさんだったりクラピカが憔悴してたりなアレ。センリツさん大好き。
 アニメ(フジ)と原作の設定両方含んでますのでネオンちゃんがナチュラルにクロロさんのことちょっと好きですね。最近原作はGIの途中まで読み返したんですが読み逃しとかあったらごめんご。

8/11 ちょっとだけボロが出ないように()変えたりしたよ。
あと実はこちらのサイトさんの『その手には色が無い』という小説の影響を少なからず受けています。

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