オーダーミスパラレルサマー(マイルド)

 そして、短い鉄パイプを振り下ろした。
 鈍くて小さい音がして、佐波川夏子が倒れる。俺は佐波川夏子が地面に伏すより先に腕を伸ばし、支えた。コンビニ弁当なんてカロリーの高そうなものを食べていて運動などほとんどしていないはずの佐波川夏子は、それでも見た目通り華奢で、見た目通り軽かった。
「……おい」
 少し揺すって、意識を確認する。呻き声すら上がらない。ただ呼吸をしているのはわかった。佐波川夏子の呼気のにおいが夏の空気に蒸されている。
 辺りに視線を動かす。人影はない。しばらく人も通らないだろう。
 邪魔な伊達眼鏡を取っ払ってついでに野暮ったい髪を若干指で梳いてから、佐波川夏子を引きずってすぐそこの雑木林に入ることにする。
「おっと」
 握ったままだった鉄パイプを落としそうになった。今たまたま拾ったものだけど、短くて握りやすく、殴りやすい。これは後も使える。一先ず、佐波川夏子の持っていたコンビニ袋の中につっこんで、コンビニ袋を拾い上げた。ついでにこれも隠しておこう。アンケートの小道具もあった。一応拾って、コンビニ袋に入れる。
 行動の中いちいち背中の佐波川夏子が邪魔だった。気絶してても面倒くせぇ……っていうのはさすがに、ただの八つ当たりだな。
 ちょっと枝に引っ掻かれながら、なんとか大きな荷物を持って背負ったままで真ん中辺りまで入れた。日陰に入ったのに暑い。湿気のせいだ。
 道や近くの建物からの死角を選び、佐波川夏子をそっと地面に下ろし、コンビニ袋も下ろす。
「さぁーあぁーいーそーぎーまーしょー」
 意識する間もなく、肩と喉仏が跳ねる。というか内臓すべてが勝手に狂喜乱舞したかのような感覚だ。自分の呼吸が耳に痛い。
「よーるーがーおーわーるーごびょうーまーえー」
 歌と共に、靴を引きずるような足音も次第に耳に入るようになってきた。誰かがここに近づいてきている。
 まずい。いや、落ち着け。通り過ぎるのを待ってから それからここを立ち去ればいいそれだけの話しだ。動揺して無駄な音を立てたら、終わる。
 通行人の誰かはゆっくり歩いているらしい。頼むから急いで通り過ぎてくれ。ちくしょう。
「まぁーだぁーたーりーないのーよー」
 その時、すぐ近くから女の声がした。もう一度内臓を飛び跳ねさせながら振り返ると、そこには意識を取り戻しつつある佐波川夏子が居た。厄介な荷物は目を見開いてきょろきょろして俺の姿を認めると、慌てて起き上がろうとする。後ずさりでもしたいんだろうがそんなことさせたら音で見つかるかもしれない。
「てーをーとってーわになってーいつまでもーつづーくーのぉぉー」
 咄嗟に佐波川夏子にのしかかり、右手でその口を押さえた。
「やっやっ」
 左手で、抵抗しようとした右手の首を強く握る。佐波川夏子の体が縮こまったのがわかった。抵抗になっていない動きを繰り返す左手も、慎重に肩で押さえつける。
 歌が止んだせいで、通行人がどの辺りを歩いているのかを聞き失った。いや、今はとにかくこいつを押さえておかないといけない。
 かたかたと、震えが伝わってきた。荒い息は俺も、口を塞がれている佐波川夏子も同じだった。どちらも危機的状況に反応して興奮している。
 顔が近くなると、肌のきめがそこまで悪くないことや産毛が逆立っていることにまで目が行く。佐波川夏子の汗か涙かわからないものや涎が嫌でも目に入る。長い黒髪の一部は口の端に捉えられ、無様にも頬に貼りついていた。すべて眼球側に向けて生えている睫毛は長く、多い。
 血走った眼球で見上げられると、視界がぐにゃりと山なりに歪んだ気がした。佐波川夏子の匂いがする。充満している気さえした。
 震える睫毛がぱさぱさと音を立てるのが聞き取れた頃、少し離れたところから歌が聴こえる。
「あきらめようやめにしようすべてはつながっている」
 歌はそこだけ聞き取れて、歌声自体もすぐに途切れた。通行人はもう行ったらしい。足音もない。
 思わず息を吐く。吸って、止める。左手でコンビニ袋から鉄パイプを取り出す。佐波川夏子が悲鳴を上げようとするのを、右手で押さえた。
「……っ」
 そして二度目の鉄パイプを振り下ろす。
 しかし、佐波川夏子も今度は意識を失わない。ただ、抵抗の意思は殺げたようだ。視線は外され、手足は強張ったまま、動こうとするのをやめた。
 もう一度殴ろうと今度は口から右手をどけて、今度は高く鉄パイプを振り上げる。
 無抵抗の佐波川夏子は、静かに泣き出した。
 ほぼ凍りついていた顔がくしゃりと歪んで、唇の下に大きく皺ができる。
 体の芯がゾクゾクして、視界がまた歪む。佐波川夏子はやはり、いい女だ。
 俺は鉄パイプを落とす。佐波川夏子はそれに対してびくっと目をつむったあと俺を見上げ、すぐにまばはきを増やしながら視線を倒した。
 泣きつづけている佐波川夏子の喉が震えて、繰り返し声を漏らす。その度俺の耳にはごつごつした小さな石みたいなものが流し込まれたように感じて、泣き出しそうになるほど呼吸が掻き乱される。
 腰が抜けそうにぐらぐらしている気さえする。喉の奥をいじらしく引っかかれているような気もする。喉が渇いて血が頭にのぼって全身が熱いのに、血と熱が脚の間にばかり集まっていくように感じる。
 心臓が下半身にも頭にもついたような感覚だ。服を着ているのももどかしい。
「……かえりたい」
 佐波川夏子は掠れた声で呟いた。諦めだけで構成された卑屈な願望が、それでも、目の前で言葉にされた。
 体の中心を抓られた気がした。
 そっと、言葉を選び、耳打ちする。
「抵抗したら、殺す」
「っ」
 佐波川夏子は声にならない悲鳴を飲み込んだ。
 喉がひくつく様は本能に何かを連想させるらし/理性というか思考自体をうっちゃった。


 覚えていることがある。
 至近距離で眺める佐波川夏子の苦悶を、素直に美しいと感じたことだ。


 我に返る頃にはどろどろに汚れて着衣の乱れた佐波川夏子と、疲れにのしかかられた俺が居た。幸い通行人は居なかったか、カップルの青姦か何かだと思って行き過ぎたかしたらしい。警察もギャラリーもなかった。
 やっちまった。
 死にたくなりながらも何とか目の焦点を合わせて、考えだす。まとまらない。ふと別のことを思い出した。
「そういえば横浜……」
 そこまで呟いて気づく。
 ここは、横浜が優勝してない世界だ。ここは、別の世界だ。
「うぅ……」
 疲れ果てて朦朧としている佐波川夏子が呻いた。
 この世界の、佐波川夏子という女だ。
 気怠い体をフルに動かして、鉄パイプを拾い佐波川夏子に馬乗りになり、思い切り振り下ろす。こいつを始末しなくてはいけないし、なんだか胸の中がもやもやする。虚脱感以上に、何かが悔しい。
 何度も鉄パイプを振り下ろす。やっぱり殴りやすいけど、佐波川夏子の不細工な濁音が耳に煩い。
 組み敷いた汚れた女が憎くて堪らなくなる。振り下ろす。振り下ろす。鉄パイプを、振り下ろす。何度も。
 この世界の佐波川夏子は、いつのまにか息をしなくなっていた。そいつを前にしてすさまじいホームシックに罹る。俺がこんな馬鹿げたことをしてない元の世界に帰りたい。
 確かに佐波川夏子の怯え顔は、すげぇゾクゾクした。
 世界が違ってもいい女だった。それは認める、けど。
「ああぁあああっ……」
 彼女とは別人だ。
 俺の知る、佐波川夏子ではない。


 アパートの自分の部屋のドアの前に立って、ノブを捻る直前にはっとした。
 今になってやっと、本当に我に返ったようだ。どうかしてたぜ。太陽のせいかな。
 元の世界の佐波川夏子とこっちの世界の佐波川夏子は確かに別人だろう。けど、だからなんなんだっつーの。

佐波川夏子のことが好きじゃなくない相葉正直(3号)が自分の間違いに癇癪を起こす話。
未成年でも読める版です。18禁はpixivに置きました。
作中で通行人が歌っているのは梨本Pのわるつ(リンク先ニコニコ動画)です。

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