リタとの生活

 探偵が登場する物語には、大抵推理が期待される。
 とはいえ探偵として犬猫探しに日々奔走するぼくはただのロリコンだし、ぼくに推理をさせたがっていた少女――トウキは大人になった。
 人より多少厄介事に出会いやすい性質ではあるが、そこはそれ。ようは巻き込まれなければいいのだ。
 ぼくこと三代目・花咲太郎は、今日も緑のキャスケットを頭に乗せ、地道な探偵業を続けている。



 うちの探偵事務所に彼女が入社してきてから、気づけば半年以上が経っていた。
 ただでさえやっと慣れてきた新生活だというのに資格取得に向けた勉強にも本気で打ち込む彼女は、毎日あまりに忙しそうだ。
 なのでぼくは、先輩風を吹かせてみることにした。
「上真桑、たまにはご飯でも奢るけど、今日この後空いてる?」
「……急にどうしたんですか」
 彼女はなぜかワニのうで立て伏せでも見たように目を丸くしている。ついでに所長もカメのふっきんを見たような顔をしている。
 失礼な!
「たまには後輩をねぎらってやろうと思っただけなんだけど、要らないならいいや」
「ごちになります先輩」
 ぼくが誘いを引っ込めようとすると途端彼女が被せ気味に乗ってきた。
「太郎くーん、俺もー」
「お疲れ様でーす」
 所長のでかい寝言は聞かなかったことにしてぼくはさっさと退社する。
 所長は見た目からして飛騨牛に近いオッサンなので、多分『モー』とでも見送ってくれたのだろう。いやあ、お茶目だなあ。
「お先でーす!」
 彼女も慌ててマフラーを巻いて、ぼくに着いてきた。
 今日は寄り道するから……自転車は事務所に置いて帰ろう。
 ビルの階段を降り、一歩外へ踏み出したところでぼくは話を切り出す。まずは進む方向を決めなくちゃね。
「トウキ、食べたいものは?」



「飲み物だけ先に頼んどくわよ」
「本当にここでよかったの?」
 近所の居酒屋で早速タッチパネルを操作するトウキに、ぼくは一応聞いておく。リクエストされてやってきたのはめちゃ安で学生も多いチェーン店だったのだ。
 トウキはんーと気のない声を発しながら確定ボタンをさっさと押してしまう。
「別にいいわよ。お鍋が食べたい気分だったけど、あたしの知ってるとこだと遠いわ高いわで面倒だし。ほら、この店にも一応あるじゃない、ミニ鍋」
 そう言うや否や次回注文の欄にミニ鍋を入れる。
「ぼくも注文するから確定押さずにおいて」
「わかってるわよ」
 トウキは返事しながらも躊躇なくポチポチとパネルを操作していく。昔と変わらず全く遠慮がない。
 事務所内ではトウキたっての希望で『一応は先輩後輩として振る舞いましょう。しばらくは』ということになっているけど、外に一歩出れば十年来の付き合いはそのままだ。あだ名も昔の通りだし。
 …………そう、昔の通りなのだ。不思議と。
 桃子という本名に姫を足して、ロリという名のお姫様扱いを指して『トウキ』と名付けたはずだったのに。あだ名が定着しすぎてトウキはトウキだとしか思えないのだ。
「ハイどーぞ」
 考え事をしている間にパネルがこっちに来た。
 好き勝手注文していた割には少ない注文内容に、ぼくなりに食べたいものと二人でつまめそうなものを足していく。
「トウキも軟骨食べるよね」
「やめとく」
 珍しいな。
 ひとまず追加注文を済ませると、丁度店員がドリンクと、遅れて来た突き出しを持ってくる。そして当然のようにドリンクを逆に置かれた。
 まあ、いくらトウキが年を食ったといえど、レッドアイとカルピスウォーターでいえばカルピスウォーターに見えるのだろうし。
 無言でドリンクを取り替えて、軽く乾杯をする。
「新人エースに乾杯」
 思いつきで付け足した言葉にトウキはちょっと吹き出しそうになって、だけど少し嬉しそうにはにかんだ。
 その後ぼくらは何でもないような話をしながら飲み食いを続けた。
 ぼくと違ってアルコールを楽しめる体質のトウキは、最初のレッドアイを美味しそうにごくごく飲み干して二杯目を注文していた。上唇だけがやけに赤く染まって、かつてを思い出して少しドキリとしたのは内緒だ。
 この世には今このとき十五歳以下を謳歌する少女が沢山いるし、仲良くなることだってできる。過去ばかり振り返るのもよくない。
 ぼくとトウキは元々それほど気が合うわけではなかったが、共にする食事を長く感じることはない。馴染んだ時間がなめらかに過ぎてゆく。
 ロリでもロリコンでも犯罪者でもない女性とこんな風に過ごす可能性なんて、ロリコンを自覚してからトウキと出会うまでの間の自分に話したら驚かれるだろうな。だって、ぼくと気が合うのはロリコンか犯罪者だし、ぼくから強いて仲良くしたいと思えるのはロリだけだから。
 そんなことを考えている間にも気づけば皿とグラスが空になり、会計を済ませて、ぼくらは居酒屋を出る。
「ご馳走様です」
「ご馳走様でした。ルイージも、ご馳走様」
「なんのなんの」
 きみはそんなに頼まなかったしね。
 寧ろトウキに代わって多めにおつまみを口にしたせいで腹八分目を守れず、ちょっと苦しい。言うて詮もないから、言わないけど。
 トウキを駅まで送る途中、信号待ちのときにそれは起きた。
「ルイージ……あたし、今楽しいのよ、張り合いがあって」
 言いながらトウキがぼくのコートを掴んでくる。
「……トウキ、ちょっ……」
 ロリアウトした(←この概念がアウトともいう)女に寄り添われても全く嬉しくない以上に、そんなに酔ってしまったなら駅から先も送った方がいいだろうかという考えがよぎる。
 ……いや、待て。今日はレッドアイ二杯だ。そんなに酔うはずがない。……え、つまりそういうことか……?
 勝手に何かに焦り立ち止まるぼくを置いて、青信号すら目に入っていなさそうなトウキは話を続ける。
「そりゃ、ちょっと大変だけど。またルイージがいて……あの事務所で……」
 言いながら、トウキの頭がとんとぼくの腕に重みを掛ける。
 まずい。いや何がまずいんだ? いや起こそう。
 トウキの体を揺すりながら軽く押して起こす。
「…………トウキ?」
 マフラーに埋もれていて気づかなかったが、よく見れば赤らんだ頬や鼻がかなり赤い。飲酒にしても気温にしても、普段ならばここまで変わらないだろう。
 潤んだ目がやっと焦点を合わせてぼくの顔を見返す。
「ああ、ごめんなさい。なんかぼーっとしちゃって」
「トウキ、一個聞きたいんだけど、いい?」
「何よ」
「……もしかして、元々熱あった?」
 ぼくは聞きながら、どうして気づかなかったんだと後悔する。額に手を当てるが外気が冷たすぎて体温がわからない。
 でも兆候はあった。今日一日トウキにしては反応が遅いときもあったし、何より食事量だ。妙に少なかった。
「……んー…………あったけど、逆に体が軽かったから」
「ちなみに何度?」
「……三十八度。熱が出ている状態だと本当に調子がいいんだよ」
「ヒノカミ神楽じゃないんだよ!?」
「うぅ……ルイージうるさい……頭痛い……」
 今から一人暮らしの家に帰らせるのは余りにも心配で胃が捻じ切れそうだ。放っておいたら夜中に「テンション上がってきた」とか言って机に向かいそう。
「ほら、一旦起きて。背負うから」
「いいわよ一人で帰れるからー」
 笑い上戸に入るトウキにぼくは割と本気で苛立つ。
「うるさい口答えするな。いいから乗りなさい」
 怒気を含んだ声にトウキは目を丸くして体を起こす。
 その隙をついて、ぼくはトウキを無理やり背負う。力技である。背中で取り落とされそうになったハンドバックもなんとかキャッチした。
 そして黙ったまま、ぼくの家へと向かった。



 家につくと、トウキにぼくのパジャマを貸して解熱鎮痛剤と水を与え、かつて毎日使っていた布団を敷いてやる。
 沈黙がいい薬になったのか、ただ単に体が怠いのか、トウキは素直に言うことを聞いた。
「このお布団、まだあったのね……」
「来客用にもなるしね。いいから寝なさい」
「はぁーい…………あ、ごめんやっぱ一回出る」
「え」
 トウキは体が軽く感じたという証言を裏付けるような軽い動きで布団から出るとハンドバッグからポーチを出してトイレへ向かう。
 そして出てくると、一言で状況を説明した。
「そろそろ生理で」
「あー……」
 ぼくもそれだけでなんとなくわかる。
 一緒に暮らしていた頃は、準備不足やら何やらで何度も悲惨な光景を目にしていたのだ。後片付けは固辞されたのであまり手伝ったことはないが。
 それからトウキは洗面台にも寄って薄く化粧の施されていた顔を洗う。いつも思うが、女に生まれるというのは大変そうだ。
 やっと布団に戻ってきた頃には十分弱は経っていて、やはりというか顔色は悪化していた。
 ピーチ姫が今やトマト女王って感じ。ミス粉砂糖にならないだけマシといえる。
「もういいよね。今度こそおやすみ」
「おやすみなさい」
 トウキが瞼を下ろして大人しくなるのを確認してから、ぼくもパジャマに着替える。
 そして飛騨牛のアイコンで登録された所長の連絡先にメール(未だにメールである)を打って寝た。



「わ! うっそ! ルイージ朝! 時間!」
 ぼくがトウキの分の朝食を作っていると、遅く起きたトウキが騒ぎ出しついでに派手に咳き込む。
「二人とも休むって飛騨牛に言っておいたよ。急の案件なかったし」
 台所から言い返してやると、トウキの気が進まなそうな「えぇー……」という声が微かに聞こえた。
 ぼくはおじやを作る方に忙しいので、困惑の方は勝手に一人でやっておいてもらう。
 熱は寝てると正確に測れないのでまだ機械で測定していないが、さっき額を触ったら熱かったのでこれで正解なのは間違いないはずだ。
 ちなみに今は朝の十時であり、ぼくの朝ごはんはとっくにすべて胃の中だ。
 そろそろいいだろうと火を止め、深皿とタオルとポカリを卓袱台に置きに行き、台所と往復してタオルの上に土鍋とレンゲを上に乗せる。
 ちなみにテーブルはぼくの布団をどかして出来たスペースに、そしてトウキの布団の真横に立てている。
「起きれそうなら食べよう」
 ぼくがそう言うと、うんうん唸っていたトウキがのろのろと起き上がる。
「こんな…………ううん、いただきます」
 そしてゆっくりと鍋の中身を深皿に移して、慎重に冷ましながら食べ始める。
 おじやより先に飲み込んだ言葉は、多分『こんなにしてくれなくていいのに』だろう。ぼくも気づかなかったことにしておいた。
 朝食を終えたトウキに薬と水と体温計を渡すと、ぼくは少し作りすぎたとはいえ半分も食べられなかったおじやをコンロの上に戻す。
 あとはトウキを寝かせたら、やることがまったくなくなる。天気はいいが、洗濯を始めたらトウキはゆっくり寝ていられないだろうし。
 久々に本でも読もうと決めて居間に戻ると、丁度薬包をゴミ箱に放り込んでいたトウキが気まずそうに体温計を指す。
「……無理して悪かったわ。ちゃんと寝るから」
「うん、起きたら簀巻きにする」
 体温計が指す体温は四十度二分、食事の直後でちょっと上がっているにしたって脳みそプリンになりそうな温度だった。ぼくはすぐにタオルを絞って来て、トウキの額に乗せてやる。
 インフルエンザの予防接種はぼくら全員(所長含む)しているけど、下がらなければ病院に担ぎ込んだ方がいいかもしれない。
 トウキの呼吸が静かになってきたのを見計らって、ぼくはこの間本棚の隙間から出てきた文庫本を開く。
 ナボコフの『ロリータ』だ。色々な意味で印象深いので一応取っておいているが、表現が特殊すぎて読みづらいのであまり読み返したことがない。注釈も山のようだし。
 ロリータは、中年男性のハンバート・ハンバートの獄中手記という形式で書かれた小説だ。少年期のアナベル・リーとの悲恋も相俟って『ある種類の小悪魔的で魅力的な少女』に惹かれる人間になった主人公のハンバートが、ドロレス・ヘイズの母親に近づいたり幼い彼女を連れてアメリカを点々としたりするような内容だ。
 初めて読んだときは確か……そう確か十七歳のドロレスの金の無心に応えつつ想いを告げたりなんかしちゃう辺りで「裏切り者ッ!」と叫んだものだった。
 しかも暇つぶしというだけなら、何度読んでも心地の良い『好き好き大好き超愛してる。』など小説だけでもいくつか家にある。しかし今日は何故だかこの本を開く気になっていた。
 熟読する気にはならないので、トランプのシャッフルのようにぱらぱらとページを送っては気まぐれに文章を拾う。……あぁ、ハンバートがドロレスの眼球を舐めるシーン、憧れたなぁ。懐かしい。
 少し捲る。一線を越えて逃亡生活を送る下りは重いので飛ばす。何が重いってハンバートの罪状。
 そういえば、タイトルは『ロリータ』だけどドロレスは大概ローと呼ばれているんだったっけ。多分ロリータとローは単純なイコールで繋げるものではなかった気もする。
 更に捲ると、後半の下りの中にリタという女性が出現する。ドロレスに脱走されたハンバートが、慰め合いのようで楽しそうでもある生活を共にする、ドロレスの倍ほどに歳を取った女性だ。
 単純で善良で気がきいて間抜けなリタとの暮らしを、短い場面を、ぼくはゆっくりと読んだ。
 ぼく個人の解釈だけど、リタなんて人物はいなかったんじゃないかと思う。作中で書かれるハンバートの手記は信用ならないのだ。
 リタは、傷つきよれよれになりながら成長し、分別を覚えたドロレスをそうぞうした姿なのではないだろうか。
 かつて小さな悪魔だった生き物は、矮小で頭の悪い人間に成り下がっていて。でも情熱の対象ではないことによって、ただ優しい日々を送ることができる。そんな身勝手すぎる理想。
 ローに見出していた魅力を欠いた、出涸らしのリタへの愛。
 ぼんやりとページを捲るうちに、ハンバートがそそっかしいリタにも見つけられるようにとへその上にお別れのメモを貼っていくシーンが終わる。
 そして、ぱたんと本を閉じる。
 トウキの様子を伺うと、大人しくすやすやと眠っていた。
 ぼくは立ち上がり、そっと額のタオルを取って、冷やして絞ってまた戻す作業を行う。冷えピタを買ってくるべきか少し迷ったが、目を離したくなくて結局トウキの傍で腰を落ち着ける。
 この子が風邪を引くなんて、いつぶりだろうか。……いや、離れて暮らしていたからものすごく久しぶりに感じるだけで、もしかしたら空白の期間に普通に風邪を引いたり怪我をしたりして過ごしてきているのかもしれない。
 それを知らずにいることに、空白の何かが疼く。
 軋む胸の内を別の痛みで上書きしようと、かつての美しさが見る影くらいしかないトウキの寝顔を眺める。
 トウキがこんな風に懸命に邁進する理由を、ぼくは知っている。
 探偵として生きていこうとしている、それがまず第一の理由。
 そして、ぼくに不向きなことを引き受けようとしているというのが、第二の理由だ。
 その証拠に、今トウキが取ろうとしている資格はうちでは所長だけが持っている例の資格だ。しかもその後の目標も事務所を安定的に営業するのに有利なものばかりである。
 所長がいつまでも元気な飛騨牛でいてくれることをぼくらはあまり疑えずにいるが、ある日「隠居する」と言い出すことくらいなら想像がつくのだ。
 劇的な事件は全て自分のものだという壮大な夢の話だけでなく、彼女は現実としてぼくに犬猫探し中心の探偵生活を続けさせようとしている。
 誤解を恐れず言うのなら、トウキはぼくを愛してくれているのだろう。それがどのように分類される愛かはともかく。
 本人に言ったら自意識過剰と笑われるだろうか、それとも普通に笑って肯定されるだろうか。
 引き続いてトウキの寝顔を眺める。老いたとは感じるのに、変わらないとも思う。
 かつてトウキは、旅行に行くだけで殺人事件に遭遇する『名探偵』体質だったし、犯人も勘でわかった。だけど事件を解き明かすには無力な少女だった。
 母親を殺した犯人も、弟を殺した犯人も知り得ながら、それを父親に信じてもらうことすらできず家を飛び出すような子供だったのだ。
 だから、彼女の発言を初めて信じた探偵・花咲太郎に、推理と解決を期待した。
 あんなにもぼくを事件に放り込もうとしていたのに、両極端な子だなぁ。
 ふいに泣きそうになって、ぼくは赤く熟れすぎた頬に触れる。
「トウキ」
 小さな声で名前を呼んでも、起きる気配がまるでない。
 ぼくだって、きみには幸せに暮らしていてほしい。好きなように生きる権利は誰にでもあるけれど、無理をしないでくれという望みくらいは聞いてほしくもある。
 ひとつ、息をつくと、ぼくはまたトウキの額からタオルを取って、冷やして戻ってくる。
 そして額にタオルを載せて、その上からキスをした。
 まじない以上の他意はない。下心など抱く余地もない。
 それはただの祈りだった。



「ルイージ、重い。重いわ……」
 呆れ顔の彼女に揺り起こされて、ぼくははっと目を覚ました。
 隣で様子を見ているうちに居眠りをしていたようだ。トウキに思いっきりもたれて寝てしまっていたし腕が痺れている。
「ごめん、大丈夫?」
 反射的に起きながら訊ねると、トウキは眉間にややしわを寄せつつも頷く。
「まあ……ちょっとトイレ」
 そして体を起こすと、額から落ちたタオルを卓袱台に乗せてとっとっとトイレに駆け込む。若干だがふらついていた。
「セーフだったけどアウト」
 だそうで、病人がぱたぱたとぼくの家を歩き回る。
 多分、服は汚れなかったけど来たは来たって話だろう。体調不良がダブルパンチだ。可哀想に。
 時計を見ると、そろそろ早めの夕飯にしてもいい時間帯だった。お昼は食べ損ねてしまったようだ。
 ぼくも立ち上がり、身支度をすることにした。今ならギリギリスーパーとドラッグストアも空いている。今夜貼る冷えピタと、それから自分の夕食のためにも出かけなくては。
「……着替えどうする? トウキ」
 すっかり今夜もうちで寝かせる気でいた自分を意識して、ぼくは少しだけ慎重に問う。うちにいるなら肌着と下着の替えくらいはいるけど、帰るなら多分、いらない。
「…………お願いしていい?」
 少し考えながらトウキは答えた。それから付け加える。
「面倒な買い物になると思うけど。お財布預けるからそれ出して買って」
「はいよ」



 買い物に出掛けたら食料のストックを買いすぎるというハプニングは起こったものの、それ以外は特に何もなく。
 トウキが風邪を引いている以外はいつも通りと言っても差し支えない時間が通り過ぎていった。
「明日はぼくは仕事行くけど、トウキは体調が悪かったら休みなよ」
 布団の上、電気を消しながらぼくが放った一言で、トウキが少し困ったような顔をした。豆電球が消える前の一瞬だったが、見間違えではない。
「うん、そうする。というか、休むって連絡した」
「そうなんだ」
 困るようなことがあっただろうかと思い出しながら自分の布団に潜り込むぼくに、トウキはやれやれとため息をついた。
「仕事に着ていける状態のあたしの服が、この家にはないのよ」
「あ……」
「忘れてたでしょ」
「うん」
 ここで一緒に暮らしているわけではない、という意識がすっぽり抜けてしまっていた。
 言い訳するなら、一緒の生活に馴染みすぎてしまったせいだ。離れて暮らすようになってからの方が長くなりつつある今でも、たまに朝起きて「はて?」と首を傾げてしまうくらいなのだ。
「バカね、ルイージは」
 まだ目が慣れていない暗がりで、トウキが姿勢を変える音がする。
「明日にはちゃんと自分の家に帰るわ。体調がよくても悪くても」
 目が慣れるのを待ちながら、トウキの布団が敷いてある方に視線を向ける。部屋が狭すぎるので、布団はあまり離して敷いていない。
 と、影が近づいてきてぼくの掛け布団の端が持ち上げられる。
「あー寒いっ。もうちょっとそっち行って」
「は?」
 トウキがぼくの布団に入ってくる。いやいや、なんで? 大人しく端に寄ってるぼくもなんで?
「この家すきま風が入るから寒いのよねぇー」
 しれっと言いつつ、トウキはぼくの懐に丸まる。
「ええぇー……」
 難色を示す割にはトウキと向かい合ってしまうぼく含め、意味がわからない状況だった。
 それにしてもやっぱり体温が高い。
 ぼくはトウキの頭に腕を回して、冷えピタが貼られた額の少し上の頭皮を触る。また熱が上がっていて、それで余計に寒いのかもしれない。
「ルイージ、結構女子高生とかに懐かれること多かったでしょ」
「え? うん、不本意ながらね」
 ぼくロリコンだし。
 藪から棒に何をと問う前に、トウキは続きを言う。
「あたしも成長してみて思ったんだけど……女子高生とか女子大生くらいの年頃にとって、自分のことを絶対にそういう目で見ないって確定している男は何気に貴重なのよ。ルイージは顔も悪くないし、常識的だし、結構いいヤツよ。そこに『安全』が加わったらそりゃあまあ、懐かれるわ」
「…………つまり?」
 事件に於いては一切閃かないぼくでも、流石に何のことを言っているかの察しはついた。が、何となく自分の思考からは受け入れがたくて発言を促した。
「あたしも安全な男で暖を取りたい」
「あ…………そ」
 ぼくはちょっとだけ迷って、結局トウキを腕の中に収めて眠った。



「おはよう、ルイージ」
 目を覚ますとトウキの顔があった。目の前に。
「お……はよう」
 ギョッとしなかったといったら嘘になる。洗われたばかりのような朝日の中に、お世辞にも若々しいとはいえない見目の元女の子の顔だ。心臓止まる。
「………………………………」
 だなんて、無理に普段どおり、年増に対する評価を下そうとしてみたけれど、既にちょっと無理があった気がしている。
 ぼくはトウキの額で剥がれかけている冷えピタを手のひらで押さえてみる。手を離したそばから剥がれた。
「困った」
 ぼくは本当にこの子にとって安全な男なのだろうか?
「何に?」
 トウキが怪訝そうに眉を曲げた。
 ぼくには返す言葉がなくて、ただ頬に触れる。
 するとトウキは一瞬目を泳がせて、それからぼくの手の上から手を重ねた。
 それだけで充分だった。
「困ったロリコンね」
「まったく、まったくだよ」
 トウキが破顔するから、つられて笑うはずのぼくの視界は無闇に滲む。
 それからぼくらは目覚ましが鳴るまで話をした。どうでもいい話ばかりで、だからこそ、どうでもよくない話しだった。
 目覚まし時計が鳴ってからは、徒歩通勤のためにいつもより手早く朝食も身支度も済ませる。
 トウキはぼくが仕事に出掛けるときには、階下が見下ろせる玄関前まで見送りに来た。パジャマの上から、ぼくが就職祝いにあげたトレンチコートを羽織っている。
「いってらっしゃーい」
 ご近所に配慮したのか中途半端な声量で言いながら手を振るトウキに、ぼくは手を振り返す。
 トウキは朝ごはんと共に飲んだ薬が効き始めてから、自分の家に帰るという。合鍵も渡したから、戸締りのためにぼくの家に残るということもない。
 帰ってくる頃にはぼくの生活の上にトウキはいない。
 一昨日までの日常が戻ってくる。
「…………………………」
 たまったものではなかった。
 ぼくがトウキに再び恋をするなんてことは、きっとない。ぼくの恋の情熱はすべて少女に向くものだから。
 けど、リタとの生活を捨てたハンバートの気持ちは、ぼくにはどんどんわからなくなる。
 だからもしも、もしも彼女にとってそれが不幸でないなら、出会った頃にした提案をもう一度してみてもいいんじゃないかと思うのだ。

 暇だったら結婚しよう、と。

『ロリータ』はリタ推し。就職祝いにトンファーはマジだと思うけど、木曽川の前で買ったのはトンファーじゃないよな明らかに。入間人間の筆滑りじゃなければ。

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