就活用なのか黒いスーツを着たそいつは、都会の雑踏の中でも頭の高さで少し目立っていた。
俺は『上京するのかよ……』と思いながらも何もしない。もう関わることもない相手だ。
「………………」
……しかし、露骨に道に迷っている。足取りも覚束ず、人にぶつかりそうになるほどに。
そういえば前に呼び出したときも地図を送ったにも関わらず道に迷って遅れて来たんだっけか。
俺は溜め息を一つついて、息抜きで立ち寄った喫茶店のアイスコーヒーを置き去りに会計を済ませる。
カラコロというドアベルの音を境目に飛び出した外の光に目を焼かれて、次にその光から来る暑さで肌を焼かれた。
「おい、クソ女」
足早に駆け寄ると、そいつはうろうろと迷っていたつま先を急にしゃっきりさせて、俺と目も合わせずに歩き出す。
「待て、どこ行く気か教えろ」
俺は無理やり隣に追いついてそいつが凝視する画面を見た。
――目的地 ○△ホテル
「逆じゃねーか!!!!!!」
力いっぱい俺が叫ぶと、そいつはやっと顔を上げて、不機嫌そうに俺を睨みつける。
「それ、お前に関係ある?」
三年ぶりの明智小夜は、少し大人びて――――そして、顔が真っ赤だった。
「……もういい、大丈夫。行く」
「まだだバカ!」
起き上がろうとする巨体を無遠慮に押し留めて、俺は溜め息を吐く。
明らかに熱中症の症状が出ている方向音痴を炎天下に放り出すわけにはいかない。
俺は今しがた明智小夜を引きずって近くのカラオケルームに入り、店員に事情を話して冷やして寝かせて今ここに至る。明智小夜の抵抗も精細を欠き、最後にはなおざりだった。
油断すると立ち上がろうとする明智小夜の頭の側に腰を下ろして、俺はスマホを取り出す。
「なんなら救急車呼ぶけど?」
「……いい、頭痛もそんなにない」
いてーんじゃん。
呆れる俺に、明智小夜は大きなため息をひとつつく。
「……帰れ。お前がいても気が休まらない」
「あのなあ、命に関わる状況でくだらない意地張るなよ」
「お前声でかい。……頭痛い」
俺が少し声を張っただけで顔をしかめた明智小夜は、自分の腕で目を覆う。
沈黙。
俺が茶々を入れる僅か前に、明智小夜が小さく口を開く。
「お前がいると、あの人のことを思い出すから、本当に帰ってほしい」
口元に表情を出さないこいつがどんな感情でいるのか、見えなくても少しだけわかる。
でも掘り返す。どうせならはっきり知りたい。
「まだ好きなの?」
「…………」
明智小夜は言葉を返さず、ただ痛そうに唾を飲む。
うん、わかった。
「ほれ」
俺は熱中症患者から見た飲みやすさを理由に持ち込みを許されたペットボトルのスポーツドリンクを明智小夜の頬に当てる。
鬱陶しそうに目を上げた明智小夜は、睨むような表情のまま、それでも言い返したりせずに少しだけ体を起こしてそれを飲む。
「こっちで就職とか正気?」
俺が質問を変えると、体を横たえ直した明智小夜は意外にも真面目に答える。
「デジタルタトゥーとやらの効果。田舎だと間口が狭いからこっちで面接する企業も候補に入れてるだけ」
「そりゃ、悪かったね」
「……思ってないこと言うな」
俺の口先だけの謝罪を突っぱねて、明智小夜は壁の方へ向く。
だから俺は、今度は本心で言う。
「……悪かったと思ってることもあるんだよ?」
明智小夜は応えない。
俺は手慰みにそいつをメニュー(かき氷三昧)で扇ぎながら、勝手に喋ることにする。
「流石にこれだけ時間が経てば俺だってお前の甘さにつけ込んで好き勝手してた自覚も出てきてさ、お詫び? お礼? なんて殊勝な気持ちじゃないけど、目の前で道に迷って死にかけてるのを放っておくのも違うかなって思うわけ」
べらべら喋っても、相手は呼吸以外の動きが見えない。
ただのしかばね……は流石にシャレならんし違うとしても、眠ったんだろうか。
そんなことを思って、ふいに隙ができてしまった。
だから、俺は言ってもいいと思っていないところまで口にする。
「………………元気でいてよ」
言ってから、ウワと思う。久々の再会なんていうエモいシチュエーション(ネット死語)に流されて綺麗事を言ったのか本当に思っているのかすら判然としない言葉は、非常に気色が悪い。
ただ、目の前で死なれたときの目覚めの悪さが、あの雑踏を歩く他人の中で群を抜いていたことだけは事実だった。
そんな事実と迂闊な口を、突如わかりやすい寝息を立て始めた明智小夜の横で悔やんだ。
「ありがとう」
夕方、無理やりホテルの入口まで送って行った俺に、明智小夜はまっすぐ殊勝にそう言った。
「でも次からはやめろ。迷惑」
率直すぎる二、三言目も含め、全然変わってないように見える。
もう三年も経つのに、中身はあの頃のままだ。変わったところまで見えるほど近くにいないだけなんだろうけど。
「じゃあ」
「待って」
踵を返そうとする明智小夜を呼び止めてスマホをかざす。
「連絡先交換しよ」
「なんで? 私とお前は……」
「オトモダチじゃないんだろ?」
反論を途中で引き受けて、喋らせないように続ける。
「でも都会でがっつり介抱して道案内までしてくれたお兄さんの言うことひとつくらい聞いてくれてもよくない?」
「無理やりついて来といてよく言う」
「あーあー、お兄さん自分が介抱した就活生が無事就職できるのか気になるなー」
明智小夜のマジレスを、俺は無理やり煙に巻く。……懐かしいやり取りだ。
「頭痛くなってきた」
「さっさと済ませて部屋で安静にしてな」
ほれほれと猫じゃらしを振るように、俺は自分のスマホを振ってやる。
「うるさ……」
頭を手で押さえた明智小夜は、ただでさえ鋭い目付きが更に鋭利になるけど、俺は笑って流しながら、僅かに本意を口にする。
「いいだろ。どこにも就職出来なかったら連絡寄越せ。指さして笑ってやるから」
「…………誰が」
毒づきながら、黒いネイルをしなくなった指がスマホを立ち上げる。
まったく俺に甘いところが隆文さんそっくりだ。
「無意味に連絡寄越したらすぐブロックするからな」
そんな言葉に許可されて、俺と明智小夜の連絡先は再び繋がる。
多分これからオトモダチになるなんてこともない。
これはただの、ひょっとしたらの遠い未来を手のひらに収める行為だ。
いつか、あの頃のことを鮮烈には思い出せなくなってきて、それでもまだ連絡先が繋がっていたら。
そしたら今日のことを揶揄ってやろう。
助けられた手前怒りきれない様を想像すると、既にちょっと笑える。
満足感を隠さない俺に舌打ちをかました明智小夜は、今度は無言で踵を返す。
俺も何も言わずに、数段の階段を登りきるのを見送った。
と、
「元気でいろ」
自動ドアの向こうに消える寸前の明智小夜が呟いたそれは、俺の空耳だったのか。
僅かに振り返った澄まし顔からも、すぐに向けた背中からも読み取れない。
「……っ、お前こそ、」
心配なんかさせるな、一生。お前のこと考える脳細胞が勿体ない。
でもそう願ったことが、願われたかもしれないことが、なんだかすごく、ムシャクシャして気分が悪い。
つまり、もしかしたら、嬉しかったのかもしれなかった。
『恋じゃないなら』で浴びせられた失恋の痛みにのたうちながら書きました。