二人席

 拾って帰ることないだろう、本人にもそう言われた。
 自分でもそこまでするのは道理に適っているように思えなかった。理由もわからなかった。
 俺はただなんとなく、彼女を暫く匿うことにした。


 引っ越しの際、一時的に荷物を置くために借りて以降、そのまま契約している貸倉庫は、季節によってはそこそこ過ごしやすい空間だった。一人でぼんやりしてみたことも何度かあり、座布団と明かりくらいは置きっぱなしにしている。
 だから、この機会にと布団と毛布も運び入れて、即席の居住空間とするのは簡単だった。
 秘密基地、というのに近いなと思った。尤も、肝心の滞在者は待遇のよさに寧ろ難色を示したのだが。
 とはいえ、拒絶されるということもなかった。たとえば今だって。
「飯を寄越せ」
「どうぞ」
 聞けば未だ十四そこそこだという彼女は、警戒を解かないながらもここ留まり、食事まで要求する。
 態度の尖りも、その切先の害になるほどの威力がない事実も小動物のそれであり、彼女は梟というより傷ついた小鳥だった。
 作戦で追い詰めた彼女を見逃し、一度隊を解散してからここに連れて来て三日が経過していた。
 生憎仕事が立て込んでいるため、俺は殆ど倉庫に寄り付くことが出来ず、彼女との接触は最初にした軽い手当てと、食事の提供くらいだった。
 コクリアに収監された喰種のための『シチュー』をくすねて来るのは実はそれなりに手間なのだが、言ったところで栓もなし、俺は彼女には黙っている。
 今日も結局食事だけは要求通りに渡してやり、俺は帰るのも面倒になって、ここで寝てしまうことにした。
 幸いなのか何なのか、彼女は警戒心から座布団に座って休息を取っているようで、布団は使わないみたいだし。
 明かりをつけたままなので俺はごろりと転がり、壁の方を向く。
「……おい」
 彼女がそこそこドスのきいた声で呼び掛けてきた。仕方ないので起きて彼女の方を向く。
「いくら何でもおかしいだろ……」
 そう重ねる彼女をよくよく見ると、その目には不満だけでなく、困惑も浮かんでいる。
「布団使うなら退くけど」
 不満とすれば布団のことかと考えて、一応申し出てみる。
 すると彼女は発言のどこかをからかわれたと解釈したようで、口をへの字に曲げて頬を赤くした。
「赫包にダメージが残っているとはいえ、そうやって私に背中を向けて寝ようとするのはおかしいだろって言ってるんだよ」
 語気を荒げる彼女に今が深夜であることを説こうかと一瞬迷ったが、余計に怒られそうなのでそれについては黙っておくことにする。
 代わりに俺は、彼女ともう一度、共通認識を検める。
「じゃあ逆に訊くけど、君は俺の寝首を掻く気なの?」
 すると彼女はすぐ真顔になって、即答する。
「そんなことはしない」
「だろう? メリットもない」
 俺は頷いてみせて、今度こそ本当に寝ることにした。布団に包まり背を向けると、彼女は諦めたように溜め息して、彼女のためにつけたままにしておいた明かりを消した。


 翌日、やっと早めに仕事を切り上げることが出来た俺が倉庫を訪ねると、布団で体を丸めて熟睡している彼女がいた。警戒するのをやめたのか、俺の訪問はもっと遅いと決めつけて気を緩めたのか、はたまた単に疲れが出たのかはわからないが、俺が近づいても起きない程度に深い眠りに落ちている。
 こうしてじっくり見ると、顔立ちは年相応か、それ以上にあどけない。頬の丸みやくちびるの肉付きに子供らしさが多分に残留している。
 庭の下の子らを思い出して、俺は少しだけ笑った。
 ――しかし。彼女はどういった道筋を経て、この幼さで既に共喰いを繰り返し、強力な赫者にまでなったのだろうか。
 俺が思わず庭の子にするように頭に手を置くと、彼女は身じろぎして、小さな口を殊更小さく動かす。
「ノロ…………さ……」
 閉じたまぶたのふちに薄らと涙が滲む。
 彼女の手が浅く空を掻いた。俺は何だか見ているままではいけないような気になって、シャツの袖を差し出す。
 すると彼女は布地を掴んで、ほっとしたような表情で、また呼吸を穏やかにした。
 本当なら、俺はすぐにでも彼女を起こして今後について話をした方がいいのだろう。元々そのつもりでもあった。
 しかしそんな気になれなくて、俺は片腕を伸ばして座布団を取りその上に座ると、そのまま布団の横で仮眠を取っておくことにする。
 話し合いなら夜遅くてもいいのだから。


 数時間後、俺はひどくばつが悪そうな彼女に揺り起こされて目を覚ました。体調はまあまあ良好だ。
「よく眠れた?」
 少しは顔色のよくなった彼女に訊ねると、返事はまず大きな溜め息で、次に小さな頷きだった。
 俺は皺の寄ったシャツの袖を撫でつけながら立ち上がり、持ってきた鞄からペットボトルの水を二本取り出す。寝起きは喉が渇く。
 俺が飲んだ分も、彼女に渡した分も半分ほど減った頃合いで彼女は口を開く。
「あなたは、どこまでならできる?」
 それは、ただただ的確な質問だった。
 俺と彼女はここに至るまでの僅かな遣り取りで、互いに和修の――特にその支配と交配については把握しているということを知っている。
 となれば仔細などよりまず、そこを確認すべきだろう。
 俺は水で口を湿らせて、こちらを射続ける彼女の視線を見返す。
「どこまでも、だ」
「何故?」
 間も置かずに重ねられた問いに、俺もまた回答を重ねる。
「自分の人生を肯定できないから」
「今更あなたの人生はどうこうならない」
 彼女は俺を睨みつけたまま、試すように微笑む。
 俺は、俺たちにとっての正しきを口に出してやる。
「お互い様だ。それでも直してやりたいと、そう思ったんだろう?」
 この、クソったれ世界を。
 半喰種として個人として優れた能力と頭脳を持ち、和修に触れないよう立ち回れば充分好き勝手に生きていける程度には強大な力を手に入れている。そんな少女が敢えて無理を押しても立ち向かって来る理由。
 私怨を覗かせる瞳の奧、その荒ぶる心象以上の部分に通う意志を、いつの間にか言葉以外の部分で理解していた。ともすればこれが、彼女を匿った理由でもあるかもしれない。
 どこまでも利己であり、詰まるところ無私である、世界への切望。自らの視点を喪失した景色であっても善くあれと願わずにいられない身勝手な想いの在り方。
 一見愚かに思えるほど硝子に体当たりを続ける小鳥の少女は、力強く頷くと、くちびるを舐めて、口を開く。
「なら、喰種たちの希望として、いつか最強のままで殺されて」

 俺たちはそうして、本当の意味で手を組むことを決めた。


「喰種組織の名前、どうしようか」
 倉庫を発つ日の夕刻、安い缶コーヒーをついばんでいた彼女は、ふいに言った。
「君が決めればいいんじゃないかな」
 俺がそう返すと、彼女は俺の頭上を、冠でも乗っているかのように両手で差す。
「あんたが決めてよ。仮とはいえ組織のトップなんだから」
「うーん……」
 急に言われても困る。
 俺はまるで香らない安いコーヒーに口をつけて、ぽつりと呟く。
「アオギリ」
「あおぎり?」
 彼女は眉を上げて、隣に座る俺の方を見上げる。
 意味は色々とあったが、俺はただコーヒーの缶を揺すってみせる。
 彼女は最初こそ怪訝そうな顔をしたが、数秒後には納得したようで、頷く。
「……うん、そうね」
 そうして初めて、険も緊張も屈託すらも取り払われた素顔で笑みを浮かべた。
「いいと思う」
「………………」
 その光景に、俺は二秒間ほどで様々なことを思い、そして……黙っておいた。
「よろしく、フクロウ」
 俺が簡素な挨拶を舌に乗せると、彼女は子供が友人をからかうときのような無邪気な皮肉で頬を歪ませる。
 そして、やっと彼女は俺に、自分の名前を告げた。
「エトだよ。私の名前はエト。今後ともよろしく、王様」


 アオギリの樹は、二人の半分同士から始まった。
 個としての俺に満たされた終わりを与えた出会いは、ここから始まり遠く未来で結実することとなる。
 しかし、個を超えておこがましいまでの願いが届く日は、俺の一生のうちに感知されることはなかった。

 あの頃ほんの少しの間囲っていた手負いの小鳥は、それを見届けてくれるだろうか。
 人間のなり損ないとしての混血でしかなかった俺には眩しすぎた、あの強烈な存在感。
 籠は壊れると、信じたくなった。
 彼女の飛べない羽がそれでも、開かれた世界を切り裂くように飛び回ることを、片隅で思い描いていた。

 ぼくが先に逝くから、先を征ってくれないか。

おまけイラスト:アオギリ小鳥

index