いつか、あなたを目指すような

 これは彼と彼女が忘れ去ってしまった話だ。


 彼はそのときもまた無力で、小さくて、泣くことしかできなかった。まだ何も知らない、少年だった頃の話だ。
 両親がどうしようもない用事で情勢が不安定な地域に出掛けると決まり、留守番を命じられたときは、荷物に紛れ込むという行動ができた。
 しかし少年を見つけた両親にしこたま怒られた後、またも宿泊施設を抜け出して迷子になった少年は、今度こそ泣くことしかできない子供だった。
 そんなとき、少年はシャツの裾を引っ張られる。
「……どうしたんですか?」
 真っ黒な髪に赤みの強い瞳の、少年よりやや幼い少女は、下から少年の顔を覗き込んで言う。
 少年は泣いているところを年下の少女に見られたことにムッとして、でもなんとか答える。
「……まいごだよ」
「えっ、まいご? たいへん! かぞくがしんぱいしてます!」
 少女があまりにも狼狽えてみせるので少し気分が落ち着いた少年は、しかしまた今度は自分の考えに拗ねて答える。
「きっともう、あきれちゃってるよ……」
 すると少女はずずいと少年に近づいて言う。
「そんなわけありません! わたしだっておとうとがいなくなっちゃったら、なにがあってもしんぱいです!!」
 あまりの剣幕に気圧されて、少年は「そうかな」と口にする。
「そうです!」
 少女は即答した。
 少年はなんだか可笑しくなってきて、くすりと笑う。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 えへへと、少年少女は笑い合う。
 しかし少年はすぐに、問題が何一つ解決していないことに気がついてしょげかえる。
「どうやってかえろう」
 少女は少し考えて、
「そうだ! おとなのひとにききましょう!」
 と言った。
「うん」
 少年は辺りを見渡す。様子のおかしい幼い二人を心配そうに見つめる目はいくつもあったが、誰に聞けばいいのかわからない。
 少女はというと
「すみません! このこまいごなんです!」
 と一番近くにいた大人に声を掛けた。
 その大人……中年の女性は少年少女に視線を合わせて優しく話し掛ける。
「お父さんお母さんはどこか、わかるかい?」
 少女は少年を見て、少年は泣きそうになりながら言う。
「おしごとって……いってた」
「どこでお仕事してるかわかるかい?」
「……わかんない」
 中年の女性の質問に、少年はまた泣き出しそうになった。みじめで情けなくて、ぐっと目に力を入れる。
「じゃあ、おうちは?」
 今度の質問には、少年もなんとか答えた。しかし、少年が暗記していた住所はあまりにも遠く、情勢を知る大人である中年の女性は『こちら側』でひとりぼっちの少年が、余計に心配になった。
 すると様子を伺っていた青年も、黙って見ているばかりではいられなかったようで、割って入って来る。
「どうやってここまで来たんだい?」
「……おとうさんのにもつにかくれて」
 まあ、と中年の女性が声を上げて、少女がバツの悪そうな顔をした少年の手をぎゅっと握る。
 少女もそれなりにいたずら娘だったので、他人事には思えなかったのだ。
「じゃあ……そうだな。この辺に泊まってたりしない?」
 青年が聞くと、少年はこっくりと頷く。
「どんなところに泊まってたんだい?」
 少年はぼんやりとした記憶の中から宿泊施設のことを話す。
「かべがしろくて、もんのよこに木があって、なまえが…………おぎ…………えぇと……わからない」
「よくそんなに覚えてたな」
 青年は少年の頭をくしゃくしゃと撫でて褒める。本当はもっとはっきりと名前を知りたかったが、今はそれを言う場面ではないのだ。
 少年は少し嬉しくなって、俯いていた顔を上げる。
 少女はその様子を見て、ああ、弟もこんな風に褒めてあげたいな、と思った。
「そこの坊ちゃん、どこに帰りたいんだって?」
 また一人、中年の男性が話に入ってくる。
「おぎ……なんとか? という宿みたいです」
 青年が言うと、中年の男性は「それだけ覚えてりゃ上出来だ」と笑い飛ばすと、候補をいくつか挙げる。
 するとその中のひとつに少年が反応した。
「そ、そこ! そこからでてきたよ!」
 少年の帰るべき場所がわかり、その場の人間の空気が一気に緩む。そこはごくごく近い場所のホテルだった。
 少女は目を輝かせて言う。
「うちのちかくだよ! つれてってあげる!」
 遠慮なくぶんぶんと手を振り回す少女に目を回しながら、少年は少女を含めた周りの人々に礼を言った。
「ありがとう。ありがとうおばちゃんたちも」
 一人で連れて行けると言い張る少女に、それなりに多忙な大人たち。大人三人がそれでも誰か一人は付き添いに行こうとしていたそのとき、もう一人の大人が声を掛けてきた。
 訳を聞こうとするその男性に中年の女性が説明をすると、男性はこう言った。
「ならば丁度いい。道すがらだ。私が連れて行こう」


 男性に連れられた少年の少女は、裏路地の入口で立ち止まった。正確には少女が立ち止まり、少年をその場に留めた。
「あの、おじちゃん。こっちじゃないですよ」
 少女の言葉に、男性は舌打ちをして、無理やり少年の手を引っ張ろうとする。
 男性は少年の服が上等なのを見て取って、誘拐して身代金を要求しようと考える悪い大人だったのだ。
 腕を引っ張られた少年は男性の手首に噛み付くと、手を繋いだままの少女を連れて一目散に表通りへと駆ける。
 人目があるところまで来て、少年と少女はやっと息をついた。
 すると丁度、そこは少年が両親と泊まっていたホテルの前だった。
「ここだ!」
 少年は少女の手を取り小躍りして喜び、少女もつられてぴょこぴょこと跳ねる。
「ありがとう! ほんとうにありがとう!」
「どういたしまして! よかった! どういたしまして!」
 そして少女はややあって、大きな声を出す。
「あ!! いけない、もうおうちにかえらないと!!!」
 夕日が少し隠れ始める時間帯になっていた。
 少年は気圧されながらも、そっかー、と返す。
「またね!」
 なんの疑いもなく少女は言って、
「あ、まって!」
 子供心に情勢の不安定さを感じ取っていた少年は少女を呼び止める。
「なまえ……きみのなまえおしえて!」
 すると少女はにっこり笑って、名前を言う。その瞬間は、少女の髪も目も白い肌も夕日に照らされキラキラと輝いていた。
「ヨル! ヨルです!」
「ヨル! またね! きっとだよ!」
 少年はありったけの勇気と声で少女に応える。


 やがて少女は思うようになる。強くなりたい。強くなって身近な人々の生活をなんとしても守りたいと。
 やがて少年は思うようになる。近くでも遠くても、皆が平和に暮らせるようになってほしいと。
 少年はその日何人かの人に助けられたが、何より年下の少女の強さと優しさに衝撃を受けていた。
 少年の頭にはしばらく、あの日の少女の姿があった。
『ヨル』という言葉の響きは、遠い異国では『夜』を指し示す言葉らしい。
 あの真っ黒な髪。少年が目指すもののイメージの原点は、その夜を思わせる色だった。
 少年はいつしか《黄昏》と呼ばれるようになるのだが、その頃には少女のことを覚えてはいなかった。


 これは彼と彼女が忘れ去ってしまった話だ。
 だから彼は何も知らずに、かつての憧れの隣にいる。

眠れなかったときのらくがきです。

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