肘置きとその妹

 肘置きだ。
 この人にとって僕は、肘置きかなんかなんだと思う。



 霜月課長から呼び出しを受けたのは、宜野座さんと会って次の、僕の非番の日だった。
 勿論、何も怪しむことなく執務室へと足を運んだ。刑事として水面下の動きをすることもあるから。
 まさか、無理やり半休を作った彼女の飲酒と愚痴に、付き合わされるとは思わなかった。
 しかも、僕の部屋で。


「雛河ぁ! あんたもちょっとくらい呑みなさいよ!」
「霜月か……霜月さん呑みすぎ……です。だめだよ、そんなに……」
 そろそろ水に変えた方がよさそうな顔色でくだを巻く霜月さんを相手に、僕はなんとか課長呼びを回避する。
 プライベートのときまで課長と呼ぶと、不機嫌になるのだ。
 恐らく理由はふたつ。もっと長く現場で活躍していたかったという本音と、それから…………多分、僕も付き合いが長いから。
 他人行儀を嫌がられる程度には、身近に思われている…………気がするのだ。
「だったらあんたが減らしなさいよね! 宜野座さんが押し付けてきたお酒!!」
 言い返されて僕は怯む。この女の子が怒るのが、僕は何年経ってもこわい。
「で、でも……」
 空けちゃうと次貰えるときまでしょんぼりするんじゃ……。そう言いかけて飲み込む。霜月さん相手に、下手に図星をつくのはだめだ。
 するとそんな僕の態度に霜月さんは別方面にヒートアップし始める。
「まったくいつまでもオドオドして、頼りなく見えるの何とかしなさいよ! あんたが無駄に過小評価食らうせいでスムーズに行かなかったこと何回あったと思ってんの? ねえ聞いてる雛河ぁ!」
「聞いてます……聞いてます……」
 机の角を挟んで隣に座っていた霜月さんがわざわざ回り込んでまで僕の頭に腕を載せてくる。
 そのまま僕は、うりうりとテーブルに押し付けるように体重をかけられて蹲る。
 だいぶ身長差はあるはずなのに、いつもマウントを取られている。僕がすごい猫背だから、座っていれば容易く届くのは、仕方ないんだけど。
「もう……もうー! みんなのばか……ばか、ばか……」
 育ちがいいせいで罵倒語のバリエーションが極端に少ない霜月さんの幼稚な罵声が降り注ぐ。
 僕は仕方なく、薄めの水割りを半分空ける。霜月さんにばかり酔わせては可哀想だから。
「あんたは寂しくないわけぇ? 『お姉ちゃん』どっか行っちゃったのよ?」
「う……あの、お姉ちゃんじゃなくて……その、常守さんです……」
 言及のついでにクセをイジられて、僕はお酒以外の理由で真っ赤になる。恥ずかしい。消えたい。
 対照的に、霜月さんは急に上機嫌になった。
「ふふふーん、知ってるんだからね、何度かお姉ちゃんって呼んじゃってたのみんな聞いてるからね。ふふふふんっ」
 笑うついでに僕のくせ毛をくるくる指で弄るから、なんだかむずがゆい。
「お姉ちゃんお姉ちゃんって、いなくなっても一番慕っててさぁー!」
 そんな言い方一度もしてないのに……。僕はだんだん悲しくなってきて、喉がひりひりして、目から涙がこぼれ始める。
「そんな…………」
 しばらく笑っていた霜月さんが僕の異変に気づいて、腕を離すと顔を覗き込んでくる。
 やめてくれるのかとほっとしたその矢先、
「ううぅー……ばか雛河ぁ、泣きたいのは私よー!」
 今度は霜月さんが泣き出してしまった。もらい泣きと言うには霜月さん自身の理由だけど、伝播したのは確かだ。
「なんで私一人だけ、一人で! 偉い立場で! こんな……こんな……新任の監視官もばかだしもう! みんなばか!!」
 一通り罵ると机に伏せてしまった霜月さんを前に、僕は数秒戸惑ったあと、肩甲骨の上あたりをそっと叩く。
「人を慰めるときくらいビクつくんじゃないわよ」
 ……手つきがお気に召さなかったようで、文句が出た。
 今度はもう少ししっかり手のひらを接地させて肩をとんとん叩いてあげていると、伏せたままこっちを首に回した霜月さんが、僕の顔を見て笑い出す。
「雛河顔があかーい」
 ……? 何が可笑しいんだろう?
 僕は酔ってもふらつくか、泣き上戸になる程度のことが多いから、笑い上戸が入っている人の気持ちはさっぱりわからない。
 でも楽しそうで、少しだけ安心する。
 優秀で、努力家で、僕なんかよりずっと偉くて、普段はつんけんして……それでも、霜月さんは年下の女の子なのだ。
「宜野座さんさー……先輩には会ってないんだって。会えるのにね。必要ないって。私は……私は会えるものなら会いたい。いつも」
「……うん」
 脈絡なく話が始まったが、僕はただ相槌を打つ。
「弥生さんには定期的に会えるしー……でも寂しいし……雛河と志恩さんいるけど! 私は課長だし!! …………会いたいの。もっと会いたい」
「そう、だね……」
「加賀美にもほんとは会いたい」
「うん……」
 時々霜月さんの口から聞く、データベース上でしか知らないその名前にも、ただ頷く。
「…………宜野座さんのばか」
 ばかなんて言ったら可哀想だよ、と思いながら、僕は霜月さんの背中をまたとんとんと叩く。
「私もあんな風に大人になるのかな……大切な人に会えるのに会わないなんて」
「ど、どうかな。人による……と思う」
 僕だって、会えれば会えるときに会いたいと思ってしまう方だから。
「私はねぇ雛河、宜野座さんが許せないの。勝手に遠く行っちゃって。私と先輩の猟犬って……言っ…………うぅ……」
 また泣き出した霜月さんは、また顔を伏せてしまう。
「……宜野座さん、は、霜月さんのことも、常守……さんのことも、大事にしてます」
 何か言わなければいけない気がして、あまり噛み合っていない返事が口から出る。
 僕はそれが気恥ずかしくて、グラスを空にした。
 その音を聞いた霜月さんは顔を上げると、また自分のグラスにお酒を注ぐ。どばどば入れそうだったので、ツーフィンガーくらいのあたりで僕が止めた。
 霜月さんは不満そうながらも、氷と水を入れる作業に移って、軽くステアしながら言う。
「あんなさ、この世でいっっっちばん尊敬しているみたいなさ、すごく大切に思っている人に、自分の意思で会わないことができるような人がさ、宜野座さんなんてさ……」
 ああ、そういうことか。
 その横顔に、何が一番の不満なのかを見て取る。
 宜野座さんがあまりに名実ともに大人だから、自分ばかりが恋しがっているようで……。
「情けないわ、私」
 顔をくしゃりと歪ませて、それから霜月さんはお酒を煽る。そして一気に半分くらい飲んで乱暴にグラスを机に置いた。
「そんなこと……ないです。宜野座さん、大人だから。それだけで」
「私なんか、理由を理解しててそれでもいつでもいなくなったこと恨んでるのよ。弥生さん……はいいのよ、めでたいわ。でも、先輩、須郷、宜野座さん、あほ宜野座さん、ばか宜野座さん……」
 僕の宥める言葉をスルーした霜月さんは、ちょっとだけ罵倒の語彙を増やした。
「理屈じゃ、ない。から、仕方ないよ」
 今度こそ聞いて貰えるように、僕は精一杯の言葉を掛ける。
 そう、理屈じゃないのだ。好きだからこそ、いなくなったら恨めしいってこともある。
 潜在犯落ちする前の顧客にもそんな悩みを持つ人がいたことを思い出す。……きっと本当の意味では、僕はその人の役には立てなかったけれど。
「大丈夫、です。思ってること、宜野座さんに伝えれば、いいと思う」
 本人にちゃんと言った方がいいよ、という意味を込めて。しかし、僕は余計な一言を加えてしまう。
「ほら、僕なんかじゃなくて」
 そして、雷が落ちた。
「だからー!! なんでそんな! 卑屈なこと言うのあんたは!!!!!」


 そして、怒り心頭の霜月さんにぼこぼこ叩かれた僕はだらりと机に伏せて起き上がる気にもなれず、瞼が落ちる感覚に身を任せていた。
 そんな僕の背中に腕からもたれかかって、霜月さんはすやすや寝ている。
 肘置きだ。
 この人にとって僕は、肘置きかなんかなんだと思う。
 でも、と酔った頭で僕は思う。
 肘置きにもたれて寝ちゃ、だめだ。もっと熟睡できる人の隣で眠るべきなのだ。
 宜野座さんなら、ずっと前から霜月さんのことを憎からず思っているのだし。
 ただ、体は痛いにせよ、僕も悪い気はしない。
 常守さんを『お姉ちゃん』と認知してしまった僕の異常性は、日常に溶けて。今は比喩として、霜月さんを妹のように思っているのだから。
 肘置きに妹だと思われてしまうようなこの人を、今は少しでも守ってあげたいのだ。

PSYCHO-PASS3がこんなにつまらないと思っていなかった頃なので多分3話か4話くらいまでしか放送してなかった頃に書いたやつだと思う。

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