すぐ枯れる白いバラ

 それは不測の事態だった。
 人が増えて、自ずと物も増えた部屋で荷物に躓いたパーティの主催者が、頭を強く打ってしまったのだ。
 結果彼は暫く意識を失い……目覚めた時には変わってしまっていた。
 パーティを形成するメンバーは殆どが関心をなくしたり戻ったら連絡をくれとだけ告げて去ったりするだけだったし、彼の秘書も不測の事態への混乱からサポート役として――後からすれば不本意にだが――キリキリ働いたため、彼は混乱のさなかでも安全だった。
 結果彼の元に残ったのは、二人の女。
 正確には他にも従順な信者や若いカップルの手先などがいたが、今近くに居るのは、その二人だった。
 彼、折原臨也は身体的には健康で、精神も、ある一点を除いて以前と違いがなかった。
「あれ、波江さん、人間ちゃんは?」
「……トイレよ。暇さえあれば彼女にくっつくのやめたら? 気味が悪いわ」
 秘書、波江は冷めた目で、はしゃぐ臨也を見る。
 ――給料にも待遇にも差はないし仕事もしている……問題ないわ。
 ――でも、人間への興味が減ってる分効率は悪くなりそうね。
 人間。哺乳類で霊長類でヒト科で、臨也が愛した種。
 しかし現在の彼にとっての人間とは、哺乳類で霊長類でヒト科で再会がひどく嬉しかった、そんな個だった。
 ドアを開けて、臨也に愛されてしまっている個は、部屋に戻った。彼女の名前をまだ、波江は覚えていない。ファイルがデスクにあったはずだが億劫で、思い出そうともしなかった。
 そして確実にそれを知っているはずの臨也にとって、彼女は人間だった。
「あ、人間ちゃんお帰りー」
「…………」
 静かに舌打ちだけして、複雑な面持ちの彼女はそれを受け入れた。
 帰る場所を捨てて来てしまった復讐劇の舞台が突然こんな風に変化するなどと、彼女には予測出来ていなかった。だからなのか、温い空気の中、彼女の顔には戸惑いしか浮かばない。それどころか、彼女は臨也を受け入れつつあった。
「人間ちゃん」
「何」
「俺は君のすべてが見たい。憎悪も表面的な絶望ももう見た。だからね、今度は恋人の腕の中で安堵の吐息を零すような、そんな君が見たいんだ」
「…………」
 ――それは宣言しない方が口説き文句として有効なんじゃ……。
 似たようなことを考える女二人の反応を無視し、臨也は彼女の髪をそっと、ほっそりした指で梳く。
「愛してる。俺は君を、心の底から愛してるよ」
 壊れ物を扱うように優しく抱き寄せて、囁く。
「地雷踏め」
 返し言葉は辛辣だ。しかし彼女は満更でもない顔をしていて、自覚もあった。
 愛されるのは、とても気持ちのいいことだ。気持ちのよさが嫌悪感に繋がることはあれど、基本的には同じだ。
 ――ほだされてる自覚はある。なら私はどうしてこんな人を受け入れてるんだろう……。
 ――帰る場所がない? ……違う。
 ――私はちゃんとわかってるはずだ。認めるしかない。私は形はどうあれこの男が好きでもあるんだ。
 ――大嫌い、だけど。
 波江はそんな様子を尻目に作業を開始する。
 心の中では「尻軽」と彼女を蔑視しながら。
 愛する弟を思い浮かべながら。
「今日はやることを削れるだけ削って後は違う日に回したんだ。この間みたいに連れ回されるのも疲れるだろ? おうちデートと洒落込もう」
 嬉しそうに笑いながら臨也は言う。
「おうちデートって単にセックスしたい場合の言い訳なケースが多いらしいけど?」
 精一杯の皮肉を返しながら、彼女は気遣わしげに波江をちらりと見た。
 ――我ながら優先順位がおかしい。他人を気遣うのが先だなんて、まるで恋人だ。
「別に私はいいわよ。気にしないでいようと思えばそう出来るわ」
 波江はけだるい言葉を投げる。
 臨也は笑顔を崩さず彼女の手を握って言う。
「心外。普通に家でゴロゴロするんだよ。たまの安らぎは大事だろ? それに、性欲は人間ちゃんじゃなくて女の子に向けるものだと思ってた」
 臨也の打った頭の歪みが露出する。人間に対する感情はあくまで人間に対する感情のままに、彼女を人間だと知覚している。
 臨也は元々ヘテロセクシャルであったし、人間という種には彼にとっての異性ばかりではない。だから、恋心のようなものまでなら抱いても、性欲はわかない。
 その割には彼女にセクハラじみたことも多くしているが、そこの矛盾がどうなっているかは、今のところ誰も知らない。
 彼女は一瞬だけ無意識に顔をしかめて、臨也に引かれる手に従った。
 臨也と彼女が入った別室、そこはソファベッドと本棚とテレビとパソコンと小さなテーブルとクッション……その他普通のものばかり置いてある普通の部屋だった。
「どーん!」
「きゃっ」
 臨也は彼女を道連れにソファベッドにダイブする。
 前後不覚の彼女を腕の中に収めて、髪にキスをした。
 まるで娘を溺愛している父のようなやり方で髪を梳く。
「…………」
 心地よさの中彼女は何も言えなかった。
 ――そういえばあの時……病室で抱擁された時ですら、毒づくのが精一杯だった。
 そこまで考えてやっと舌打ちを一つするが、少し弱々しい。
 ――あの時
 臨也は舌打ちに対して嬉しそうに苦笑する。
 ――波江さんって人も言ってたけど、あの時の私へのリアクションが、最近で最も人間に対し愛しいと感じた出来事だったから、こうなかったのかな。
「人間ちゃん。好きだよ」
 ――ハグがやたら好きなのも、それなら説明がつく気がする。
「……愛してるんだ」
 掠れた声に滲み出た心細さに、彼女は思考から目を覚ます。覚醒に覚醒を重ねたように、耳が過敏に、声と息を拾う。
 声を詰まらせたような、声と無声の混ざった不安定な呼吸音。
 彼女が体を少し離して顔を上げれば、彼女と臨也は目が合う。
 ――声だけを聞くのも怖いけど、顔を見るのも怖い。
 何故だか恐怖にかられた彼女だったが、臨也は彼女のすべすべした顎に指を滑り込ませ、少し肩を押して顔を上げさせる。
 迷っていた彼女は抵抗しなかった。
 彼女が目にした臨也の表情は、息の音に反して薄い。
「ねぇ、君は?」
 縋るような、今度は今回は今はと、そう意識するような声で臨也は言った。
 彼女は息を吐いて目を閉じて、喉の奥で生まれた焦げ付くような淡い痒みに身を任せた。
 彼女は今、百年や千年越しでも叶わない愛や恋の成就の蜃気楼に似た何かの実体を、伸ばし切らない指の少し先に、感じていた。
 臨也は目を閉じた『女』を前にそれでも察してキスはせず、涙を拭った。
 じわじわと、正常な感覚が蘇るのが、臨也にはわかった。
 何故彼女の涙が流れたのかを希望的に予想し、次に冷静な予想を……せず、無理に押し止めて正常な感覚にも霞みがかかるように彼女の髪に鼻を埋めて、彼女の匂いに脳を浸した。
 彼女はそろそろと、臨也の胴に、手首を乗せる。それが彼女の、憎悪から愛情への精一杯の譲歩だった。
 むず痒さに、臨也は一瞬息を詰まらせる。
 ――ああ、そうか。
 臨也は両想いの気持ちよさの中で、眩暈と眠気を覚えだす。しかし心の中は穏やかな愛情が流れていた。
 ――眠って目覚めたときには、記憶が地続きだろうと元の僕なんだろうな。
 もう一度、臨也は、彼女を抱きしめた。
 何も知らない彼女は、これから自分と相手の愛情にどう整理をつけていくかを考えている。これから、のことを。
 臨也は薄れる意識の中、祈った。

 ――ああ、今だけでいい、今が永久に続けばいい。
 ――今だけは『この人』を、好きでいたい。

途中まで勢いで書いて、あ、うー、どうやって続けよう、となって、数日寝かして、どだっと書きました。全部布団の中でねむねむしながら書きました。
ソファベッドに突然ダイブしたのはわたしが敷き布団抱き枕とラブラブしてたせいだと言っても過言じゃないですすーぴー。

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